フィリップ・ペタン
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アンリ・フィリップ・ペタン(Henri Philippe Pétain, 1856年4月24日 - 1951年7月23日)は、フランスの軍人、政治家であり、ヴィシー政府の首相である。
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[編集] プロフィール
[編集] 英雄
1856年にコーチアラトゥールで生まれた。第一次世界大戦でフランス軍の指揮をとり、ヴェルダンの戦いでの戦功から「ヴェルダンの英雄」として知られている。なお、当時の部下の1人が、第二次世界大戦勃発後に彼と対峙する反独亡命政府自由フランスの指導者で、後のフランス大統領のシャルル・ド・ゴールである。フランス軍の司令官に2回任命され、彼の提唱する防御戦略に従ってマジノ線が建設された。
[編集] ヴィシー政権
第二次世界大戦中の1940年春、フランスがドイツと休戦したのち、フランス議会はペタンをフランス首相に任命し、非常権限を与えた。この行いは後に自由フランスの指導者となったド・ゴールから合憲性がないと非難されているが、ペタンの首相任命は合法的になされたものであり、当時ペタンはフランスの救世主だと受け取られた。1940年6月22日、彼はドイツとの休戦協定に署名した。その内容は、パリを含むフランス北部と東部におけるドイツの占領を認めるというものであった。残りの地域は、南フランスのヴィシーを首都としたフランス政府(ヴィシー政権)が治めた。
ファシスト国家の指導者として、ペタンを「国家の父」とするような個人崇拝が起きたが、ペタンも副首相のピエール・ラヴァルもドイツの枢軸国側に加わるようにという要求を拒絶する事はなかった。
彼は枢軸国に大量の物資や食料を提供し、海外の植民地にいるフランス軍に連合国と戦う事を命じ、さらにドイツ軍を抵抗なしに受け入れるよう命じ、実際にマダガスカルなど多数の植民地政府がこれに倣った。1942年春、ドイツはフランスのレジスタンスとの停戦を破棄し、戦争協力のためフランスの多くの労働者を徴発した。フランス全土はドイツ軍に占領され、ペタンは飾り物の指導者でしかなくなった。
[編集] 政権崩壊
1944年に自由フランスのド・ゴールを含む連合軍がフランスに再上陸した後の9月7日、ヴィシー政府は連合軍の攻撃を避け、ペタンも南ドイツのジグマリンゲンに避難したが、その後すぐにペタンは首相を辞任した。
[編集] 死刑宣告
1945年4月にフランスに戻り、1946年の7月から8月にかけて裁判にかけられ、死刑を宣告された。1946年8月17日、高齢だという理由で、ド・ゴールによって無期禁固刑に減刑された。1951年、流刑地であるブルターニュ地方のユー島で生涯を閉じた。
[編集] 関連項目
前任: フェルディナン・フォシュ |
アカデミー・フランセーズ 席次18 |
後任: アンドレ・フランソワ=ポンセ |