フサイン=マクマホン協定
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団体 |
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フサイン・マクマホン協定( ―きょうてい)とは、1915年、イギリスが、オスマン帝国の支配下にあったアラブ地域の独立と、アラブ人のパレスチナでの居住を認めた協定。日本では後述のバルフォア宣言と対比させる意味でマクマホン宣言( ―せんげん)と呼ぶことがある。
[編集] 概要
マッカ(メッカ)の太守であるフサイン・イブン・アリーとイギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンとの間でやりとりされた書簡の中で、イギリスは対トルコ戦協力を条件にアラブ人居住地の独立支持を約束した。これは、翌年のアラブ地域を分割を決定したサイクス・ピコ協定、翌々年のパレスチナへのユダヤ人入植を認めるバルフォア宣言と矛盾していたため、一連のイギリスの行動を指して「イギリスの三枚舌外交」ともいわれる。このイギリスの外交が、パレスチナ問題の大きな原因となった。
決定的に重要とされているマクマホンの第二の手紙(1915年10月24日付)は、以下のように述べている。(英語版 11:06, 31 October 2006より)
The districts of Mersin and Alexandretta, and portions of Syria lying to the west of the districts of Damascus, Homs, Hama and Aleppo, cannot be said to be purely Arab, and must on that account be excepted from the proposed delimitation. Subject to that modification, and without prejudice to the treaties concluded between us and certain Arab Chiefs, we accept that delimitation. As for the regions lying within the proposed frontiers, in which Great Britain is free to act without detriment to interests of her ally France, I am authorized to give you the following pledges on behalf of the Government of Great Britain, and to reply as follows to your note: That subject to the modifications stated above, Great Britain is prepared to recognize and uphold the independence of the Arabs in all the regions lying within the frontiers proposed by the Sharif of Mecca.