ガマール・アブドゥン=ナーセル
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ガマール・アブドゥン=ナーセル(جمال عبد الناصر Jamāl ‘Abd al-Nāsir; Gamal Abdel Nasser, 1918年1月15日 - 1970年9月28日)は、エジプトの軍人・政治家で、エジプト・アラブ共和国第2代大統領。
ナセル大統領とする表記が一般的であるが、ナセル(ナーセル)は父の名アブドゥンナーセルの後ろ半分で、姓ではない。(参考:イスラム圏の名前)
ナーセルは、1918年にエジプト北部地中海沿岸の都市アレクサンドリアで郵便局長の息子として生まれた。オスマン帝国から独立するも、かわってイギリスの保護国となっていたエジプトの解放を目指す民族運動に若い頃から関心を寄せていたといわれる。陸軍士官学校卒業後、自由将校団の結成に加わり、その指導者のひとりとなる。1948年、イスラエルが建国され第一次中東戦争が始まると、少佐としてアラブ連合軍に参加。アラブ連合軍が敗北すると帰国した。
1952年7月23日、自由将校団がクーデターを起こし、1953年に王制を廃止する(エジプト革命)と、第一次中東戦争で活躍した将軍ムハンマド・ナギーブを首班に迎えてナギーブを委員長とする革命指導評議会を結成し、権力を握った。しかし、まもなく大統領に就任したナギーブと、将校団のリーダーであったナーセルとの対立が表面化し、1954年にナギーブを支持するムスリム同胞団によるナーセル暗殺未遂を経てナギーブ大統領を解任、ナギーブ派を追放して自ら大統領に就任した。
この間、1952年の農地改革を始めとして、王制下での政治・経済の旧体制の改革を推し進めた。外交的には汎アラブ主義にのっとった政策を取り、イラクなどの中東諸国が結んだバグダード条約機構に反対し、アラブ諸国間の団結を唱えて主導権を握った。また、非同盟主義を唱えてバンドン会議に出席、第三世界の指導者となった。1956年7月にはスエズ運河の国有化を宣言し、スエズ戦争(第二次中東戦争)でその承認を勝ち取る。この背景には、アスワン・ハイ・ダム建設の資金獲得をはかったものといわれている。
しかし、アラブの大同団結を目指して1958年にシリアと結成したアラブ連合共和国は3年後のシリアの脱退で崩壊し、ナーセルの威信に揺らぎが見え始める。特に1967年、エジプトはイスラエルとの第三次中東戦争(六日戦争)が惨敗に終わり、国土の東部を占めるシナイ半島がイスラエルに占領される事態となり、ナーセルは責任を取って辞任を宣言するまでに追い込まれた。しかし、国民が辞任を受け入れず、大統領に留まることを求めたためにナーセルは失脚を免れた。その後もイスラエルに対して強硬策を続け、承認しない・交渉しない・和平しない・パレスチナ人の権利回復の原則を求めつづける。
しかし、国内ではスエズ運河の収入が無くなり、インフレが進行。ナーセル体制は崩壊に向かっていた。1970年、ヨルダン内戦の仲裁を行うなど多忙をきわめる中で、ナーセルは心臓発作で急死した。まだ52歳の若さであった。
後任として士官学校以来のナーセルの盟友で副大統領のサーダートが就任し、ナーセル体制にかわる経済の自由化を進めることになる。
[編集] 余談
上杉鷹山が息子に言ったとされる『なせば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり』をもじって、『なせば成る ナセルはアラブの大統領』と言う駄洒落が知られている。
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