フランソワ・セベール
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F1での経歴 | |
国籍 | ![]() |
活動年数 | 1970 - 1973 |
所属チーム | ティレル |
出走回数 | 46 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 1 |
通算獲得ポイント | 89 |
表彰台(3位以内)回数 | 13 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 2 |
F1デビュー戦 | 1970年オランダGP |
初勝利 | 1971年アメリカGP |
最終勝利 | 1971年アメリカGP |
最終戦 | 1973年カナダGP |
フランソワ・セベール(Albert François Cévert, 1944年2月25日 - 1973年10月6日)は、フランス人の元F1ドライバー。
目次 |
[編集] 経歴
1968年にフランスF3でチャンピオンを獲得。翌年はF2に参戦していたが、この時の走りを見ていたジャッキー・スチュワートがケン・ティレルへ進言したことにより、翌1970年に、3戦のみでチームを去ったジョニー・セルボ・ギャバンの代わりに、スチュワートのチームメイトとして第5戦オランダGPでF1デビューを果たした。この年の第10戦イタリアGPで早くも6位入賞を果たす。
ティレルチームがマーチのシャシーから自製シャシーへ変更した1971年になると、セベールはフランスGP、ドイツGPでの2位、イタリアGPでの3位表彰台を経て、ワトキンズグレンでの最終戦アメリカGPでは初優勝。この勝利は、1955年と1958年のモナコGPで優勝したモーリス・トランティニアン以来の、フランス人のF1優勝であった。ドライバーズランキングでは3位となり、チームのコンストラクターズチャンピオンに貢献する。
1972年はやや勢いを欠いたが、1973年になると優勝こそないものの、セベールは常にスチュワートの背後の位置で表彰台を獲得するレースを見せるようになる。こうしたセベールの姿に、この年のチャンピオンを手中に収めていたスチュワートは、ひそかに引退してセベールに後を託すことを考えるようになる。
[編集] 事故死
ところが、そうして迎えた最終戦アメリカGPの予選中、予選4位のタイムを記録した直後にポールポジションを目指してアタックに出たセベールは、直角の第1コーナーからつながる高速S字「エセス」に進入する際、オーバースピードから外側ガードレールに接触しコントロールを失い大クラッシュ。宙を舞ったマシンは、裏返ったままガードレールの真上に落下、セベールはマシンごと股から顎の下まで、真っ二つに引き裂かれ即死。享年29。現場は凄惨であり、事故現場を見た同僚のジャッキー・スチュワートは『残骸の中を見たが、彼の姿を判別するのはヘルメットぐらいしかなかった。まるで屠殺場のようで…』と発言しており、またピットに運ばれたマシンの内部には、セベールの体の一部が残っていたという。
この事故以前の段階でこのレースを最後に引退が決まっていたスチュワートは、この愛弟子の姿に心を痛め、自身100戦目を迎えるはずであったこのレースを辞退した。チームメイトは、ジョディ・シェクターが予定され、まさに順風満帆の中での悲劇だった。
[編集] トリビア
少年時代からハンサムな容姿で知られ、女優のブリジット・バルドーとも浮名を流したことがある。バルドーの自伝「イニシャルはBB」にも僅かに記述があるが、「セベールは頭が悪かった為、すぐ熱が冷め、あらゆる意地悪をして振った」と書かれるなど、好意的な記述は無いという。
[編集] 関連項目
カテゴリ: フランスのF1ドライバー | 1944年生 | 1973年没