プエブロ号事件
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プエブロ号事件(ぷえぶろごうじけん)は、1968年にアメリカ合衆国の情報収集艦が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に拿捕された事件。
[編集] 概要
1968年1月21日、北朝鮮が青瓦台襲撃未遂事件によって大韓民国大統領朴正煕殺害を狙ってからわずか2日後の1月23日、北朝鮮東岸の元山(ウォンサン)沖公海上で、アメリカ国家安全保障局(NSA)の電波情報収集任務に就いていた、アメリカ海軍所属の艦船『プエブロ号』(USS Pueblo, AGER-2 935トン。乗員83名)が、領海侵犯を理由に北朝鮮警備艇などから攻撃を受け、乗員1名が死亡、残る乗員82名が身柄を拘束され、北朝鮮当局の取り調べを受けた。ただし、本当に領海侵犯が行なわれたかどうかについては、現在もアメリカと北朝鮮で主張が食い違っている。
アメリカは海軍空母部隊(航空機200機)を展開して、乗組員の解放を要求したが、北朝鮮は拒否し、反対に米国の謝罪を要求した。アメリカは朝鮮戦争の休戦協定を破るわけにも行かず、またベトナム戦争が拡大し続ける中であり、戦線の拡大は北朝鮮の同盟国であるソビエト連邦の自動参戦を招きかねないことでもあった。
結局、外交的解決として、板門店での会談でアメリカは北朝鮮の用意した、スパイ活動を認める謝罪文章に調印することとなった。乗員は11ヶ月の拘束ののちに12月に解放されたが、プエブロ号の船体は返還されず、現在も北朝鮮の管理下に置かれて平壌市内の大同江で一般公開され、反米宣伝に利用されている。
このプエブロ号拿捕事件を受けて、日本に初めて原子力空母として寄港したエンタープライズは佐世保を出港すると南下を中止し、急遽韓国へ向かった。朴正煕暗殺未遂に続いて起こった出来事に、第2次朝鮮戦争の危機を感じさせる事件であった。
この事件は、アメリカを人質にとることで、朴正煕の北進を断念させる狙いがあったともいえる。一方、戦争の危険を省みずにアメリカに挑戦し、ぎりぎりの外交戦術で相手の譲歩を勝ち取る「瀬戸際外交」の始まりであったと見るものもいる。