ヘロデ大王
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ヘロデ大王は、古代パレスティナの王(在位 紀元前37年-紀元前4年)。息子たちと区別してヘロデ大王、あるいは大ヘロデと言われる。ローマ帝国の権威を背後にユダヤに君臨した。建築マニアとして知られ、エルサレム神殿の大改築を含む多くの建築物を残した。だが、猜疑心が強く身内を含む多くの人間を殺害したことでも有名。
[編集] 生涯
古代ユダヤにおいて再び独立を獲得したハスモン朝の末期の王アレクサンドロス・ヤンナイオスの息子ヒルカノス2世の側近にイドマヤ(エドムのギリシャ語読み)出身のアンティパトロスという武将がいた(イドマヤはハスモン朝によってユダヤ教化させられた土地であり、ユダヤ人からは軽視されていた、と書かれている)。ヘロデはこのアンティパトロスの息子である。父アンティパトロスはローマ軍の軍事行動を積極的に援助することでユリウス・カエサルの信用を勝ち取ることに成功した。
ヘロデはカエサル死後の混乱したローマの政治情勢を読みきって、ローマとの友好関係を維持することに成功。ガリラヤ地方の知事として統治した。父アンティパトロスがマリコスというユダヤ人に毒殺されると、即座に彼を捕らえて処刑しているが、ヘロデの専制的なやり方はユダヤ人最高法院の反感を招くものであった。
ヘロデのチャンスは人生最大の危機によって訪れた。政教一致政権であるハスモン朝において大祭司でもあったヒルカノスの甥アンティゴノスがパルティアの援助を受けて伯父に叛旗を翻したのである。エルサレムにいたヘロデの兄パサエロスも捕らえられて命を落とした。ヘロデはマリアンネ1世を妻としてハスモン朝との関係を作っていたが親ローマであったため身に危険がおよび、ガリラヤから当時クレオパトラのもとにいたマルクス・アントニウスの援助を求めてアレクサンドリアへ逃れ、そこからローマに渡った。
ヘロデはローマにおいて元老院にアピール、父の代から続くローマへの忠誠を評価されてローマの軍勢を貸与され、エルサレムへ向かった。エルサレムはローマ軍の精鋭の前にあえなく陥落。紀元前37年、ヘロデはついにローマ公認のユダヤ王となることができた。
アントニウスがオクタウィアヌスに敗北すると、ヘロデはすかさず勝利者へ乗り換えた。ヘロデはローマの指導層との友好関係こそが自らの政権の唯一の基盤であることを熟知していたのである。王位についたヘロデが徹底したことは前政権ハスモン朝の血をひくものをすべて抹殺することであった。アンティゴノスはローマ人によって処刑された。ヘロデは妻マリアンネとその間に生まれた自分の二人の息子すら手をかけ、マリアムネの弟アリストブロス、マリアムネの母アレクサンドラも殺害した。また自分に対して敵対的であったユダヤ教の指導層最高法院の指導的なメンバーたちを迷わず処刑している。これ以降最高法院の影響力は弱まり、宗教的な問題のみを裁くようになる。
ヘロデは建築が趣味であった。人工港湾都市カイサリア、歴史に名を残す大要塞マサダ、アウグストゥスの名前を冠した新都市セバステ(サマリア)、エルサレムのアントニア要塞、要塞都市ヘロディオン、マカイロスなどはすべてヘロデの時代につくられた。それだけでなくヘレニズム君主としてパレスティナや小アジアのユダヤ人が住む多くの都市に多くの公共施設を提供している。この行為はギリシャ系住民の間でヘロデの名声を高めたが、ユダヤ系住民にはかえって反感を買うことになった。
しかし、なんといってもヘロデの名を不朽のものとしたのはソロモン王を超える規模で行ったエルサレム神殿の大改築であった。神殿はローマ帝国を含む当時の世界でも評判となり、このヘロデの時代にディアスポラのユダヤ人や非ユダヤ教徒までが神殿に参拝しようとエルサレムをさかんに訪れるようになった。
ヘロデ大王の最晩年は後継者問題が彼の頭を悩ませた。また、エルサレム神殿に金の鷲をすえようとしたため、ユダヤ教指導層と対立することになった。紀元前4年、ヘロデ大王死去。
新約聖書のマタイによる福音書では新たな王(救世主)の誕生を恐れたヘロデ大王が二歳以下の幼児を虐殺(幼児虐殺)させたため、イエスと両親がエジプトに避難したという記事があるが、歴史的な裏づけはない。ただし、この描写が福音書記者の時代のヘロデに対する一般的な認識を反映している可能性はある。
ヘロデの死後、遺言に従って息子のアルケラオスとヘロデ・アンティパス、フィリポスと三人の兄弟たちが後を継いだ。ユダヤ人たちはローマに使者を派遣して、ヘロデ王家の支配を廃してくれるよう要請したが、聞き入れられなかった。しかし、アルケラオが王を名乗ることは許されなかった。後にアルケラオは失政を重ねたため、住民によってローマに訴えられ、解任されてガリアへ追放された。その後のユダヤはローマ帝国の直轄領となった。他の兄弟たちも父のように王を名乗ることはゆるされなかったが、分封領主としてユダヤの周辺地域をおさめることを認められた。