ベトナムに平和を!市民連合
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ベトナムに平和を!市民連合(ベトナムにへいわを!しみんれんごう)は、日本における代表的なベトナム戦争反戦平和運動団体。略称は「ベ平連(ベへいれん)」。運動団体といっても規約も会員名簿もなく、何らかの形で平和運動に参加した人や団体を「べ平連」と呼んだ。
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[編集] 概要
[編集] 発足
1965年2月7日に開始されたアメリカ軍による北ベトナムへのいわゆる「北爆」など、アメリカ軍のベトナム戦争に対する本格軍事介入を受けて、作家の小田実が、哲学者の鶴見俊輔や政治学者の高畠通敏とともに1965年4月24日に「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」の名で発足させたのが始まりである。同年、久保圭之介に代わり吉川勇一が事務局長になる。
その後1966年10月16日に名称を「ベトナムに平和を!市民連合」に変更し、全国に活動が広がって行った。1974年1月に、パリ協定調印後のアメリカ軍のベトナムからの全面撤退を受け解散した。その思想は1980年にやはり小田が他の数人と語らって結成した「日本はこれでいいのか市民連合」(日市連、1995年解散)、1988年結成の「市民の意見30の会」に受け継がれている。
[編集] 市民運動
左翼政党(日本共産党、日本社会党)や労働組合などによる既成の政党運動ではない、純粋に市民による反戦平和運動であるが、基本的にベトナム戦争の片方の当事者であるアメリカの一方的な軍事介入に反対・抗議する事を主な目的に発足した事もあり、当初から左翼・反米的な要素が含まれていたのも事実である。しかし、基本的に「来る者は拒まず・去る者は追わず」の自由意思による参加が原則で、その「いいかげん」とも評された程の自由な雰囲気により、学生から社会人や主婦など、職業や社会的地位、政治的主張を問わず多くの参加者を呼び寄せる事になった。
1965年4月に東京のアメリカ大使館へのデモ行進を行ったのを始まりに、同年11月には作家の開高健の発案で米紙ニューヨーク・タイムズへ1面を使った反戦広告を掲載、1967年4月には画家岡本太郎・筆の“殺すな”と大書された文字の下に英文のメッセージをデザインした反戦広告をワシントン・ポストに掲載するなど、その活動も既成の市民運動の枠を大きく超えたものであった。
[編集] 左傾化とソ連からの援助
小田らはアメリカ軍の良心的脱走兵の支援も行い、これらの活動はベ平連とは別にJATEC(Japan Technical Committee to Aid Anti War GIs―反戦脱走米兵援助日本技術委員会)として運営され、ソビエト連邦などの支援を受け、ソ連極東部のウラジオストックへの定期便やレポ船などを使い、少数の脱走兵をスウェーデンなどの軍事中立国に脱出させる事に成功した。[1]
その後次第に活動内容に左翼思想的な要素が増して行き、イデオロギー的なものを嫌う多くの参加者が離れて行った。その上、社会的影響力の大きさと脱走兵逃亡幇助(JATEC)という活動内容から、日本の警察のみならず、アメリカ・ソビエト連邦両国のスパイまでもが運動に食い込むようになった。そしてソ連崩壊で公開されたソ連側機密文書によって、小田実と吉川勇一がKGBのエージェントだったことが暴露された[2]。しかしこの事実を報道した日本のマスメディアは、産経新聞[3]、読売新聞といった右派メディアが主で左翼メディアはこれを事実上無視したため、小田、吉川らは、この様な事実が公になったにもかかわらず、いまだに日本の左翼陣営では強い発言力を維持し続けている。
[編集] 評価
ソ連政府の支援を受けたことなどが象徴するように、次第に活動内容に左翼思想的な要素が強くなり、最終的に多くの参加者の支持を失う結果になったが、活動開始時に、これまでの既成組織(左翼政党や労働組合)が中心になって行った教条的で閉鎖的な市民運動とは違う、政治的信条や思想を問わない「来る者拒まず、去る者追わず」のしなやかな活動姿勢を日本で最初に取り入れた事は評価されてしかるべきであるとの意見も多い。
[編集] 脚注
- ^ 「67年の横須賀から米兵4人亡命事件に、旧ソ連政府が関与--本社、秘密文書を入手」毎日新聞 1995.07.20
- ^ Koenker, Diane P., and Ronald D. Bachman (ed.), Revelations from the Russian archives : Documents in English Translation, Washington, D.C. : Library of Congress, 1997.
- ^ 「ベ平連、KGBと接触し資金援助求める。旧ソ連極秘文書で報告」産経新聞1993.01.18