吉川勇一
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吉川 勇一(よしかわ ゆういち 1931年-)は、翻訳家、市民運動家。元・英語教師(予備校講師・専門学校講師)、元・大学講師。
東京大学在学中に日本共産党に入党、また、東京大学学生自治会議長を勤める。大学中退後は全学連書記局員、日本戦没学生記念会(わだつみ会)事務局員、日本平和委員会事務局員を歴任。1965年、前年の原水爆禁止世界大会で共産党の方針に反対意見を表明したことで党から除名処分を受ける。同年小田実主催のベ平連の2代目事務局長になり、1974年のベ平連解散まで勤める(ソ連崩壊で公開されたソ連側機密文書によって、小田実と吉川勇一がKGBのエージェントだったことが暴露されている)。その後小田、色川大吉らを中心とした「日本はこれでいいのか市民連合」(日市連)(1980年-1994年)に参加するが、1987年に小田の東京都知事選挙への出馬の是非を巡って日市連内で対立が起こり会を離れる。1988年マルチイシューの市民運動を目指す「市民の意見30の会」を結成。近年は市民意見広告運動にも力を注ぐ。
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[編集] 経歴
- 1931年 東京生まれ
- 1948年 埼玉県立川越中学校(現・埼玉県立川越高等学校)を5年で卒業
- 1952年 東京大学文学部社会学科中退
- 1965年 日本共産党除名。ベ平連事務局長に就任。
- 1970年-1972年 名古屋学院大学非常勤講師(倫理学、外書講読、社会学ゼミ―ミニコミ論)
- 1971年-1998年12月 代々木ゼミナール英語科講師
英語が最も苦手な学生を対象とした週4コマの「ベイシック英語ゼミ」を長年にわたって担当(講座の開設は、土師政雄の「ベイシック数学ゼミ」に倣ったもの)。当時の講義の一部は『吉川のベイシック英語』(代々木ライブラリー)に公開されている。
- 1974年 ベ平連解散
- 1980年-1985年 日本ジャーナリスト専門学校英語科講師
- 1988年 「市民の意見30の会」結成
- 2000年-2001年 恵泉女学園大学非常勤講師(担当講座「アメリカとアジア」)
- 2003年 市民意見広告運動を始める
[編集] 運動家として
東京大学学生時代に日本共産党に入党し、東大ポポロ事件に関わる。また、砂川闘争にも参加する。東大中退後は全学連事務局や日本平和委員会など左翼運動組織に関わり、そこで実務能力を身につける。頑なまでに主張を一貫させ、日本共産党の方針に反対した言論を展開したかどで、同党から除名処分を受けたりした。近年においても真剣な言論活動を行い、「喧嘩ジジイ」とまで言われ、周囲に波紋を広げることがある。
反面、機知に富んだ感覚も持ち合わせ、そのため教条的な左翼運動だけでなく「ええかげん」なベ平連運動の主体にもなった。既存の左翼運動での知識、経験とベ平連の思想の豊かさが市民運動家としての背景になっている。ちなみにベ平連に参加するきっかけは、ベ平連主催の企画でベトナムの地図を描くことができる人が必要だったから氏が紹介されたことである。
近年は運動経験の共有、継承にも力を入れており、氏のサイトでは最近の著作を読むことができる。
[編集] 著書
[編集] 英語参考書
- 『吉川のベイシック英語 ― 5日間集中講義』(代々木ライブラリー、1991年) ISBN 4896802713
- 『納得できる英文法』 (研究社出版、1994年) ISBN 4327763551
[編集] 評論集
- 『反核の論理 ― 欧米・第三世界・日本』 (柘植書房新社、1982年) ISBN 4806802298
- 『市民運動の宿題 ― ベトナム反戦から未来へ』 (思想の科学社、1991年)
- 『反戦平和の思想と行動(コメンタール戦後50年 第4巻)』 (社会評論社、1995年) ISBN 4784505342
[編集] 闘病記
- 『いい人はガンになる』 (KSS出版、1999年) ISBN 487709332X
[編集] 翻訳
- テリー・ホイットモア 『兄弟よ、俺はもう帰らない (新版) ― ベトナム戦争の黒人脱走米兵手記』 (第三書館、1993年) ISBN 4807493140
- D・デリンジャー 『「アメリカ」が知らないアメリカ ― 反戦・非暴力のわが回想』 (藤原書店、1997年) ISBN 4894340852
など
[編集] 外部リンク
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