マーシア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マーシア(Mercia)王国は中世初期イングランドの七王国のひとつ。7世紀中ごろから9世紀初頭にかけてイングランド中部で強い勢力をもち、特に8世紀にはふたりのブレトワルダ(大王もしくは覇王)を輩出した。
目次 |
[編集] 時代背景
古代ローマの力が去った中世初期イングランドでは、ブリトン人と北方のピクト人・スコット人などとの間で勢力争いが激化していた。ブリトン人諸王国は古代ローマにならい、異民族をもって異民族にあたらせた。すなわち北欧・ユトランド半島のアングロサクソン人戦士団をイングランドに招き、雇い入れて戦力として使ったのである。しかしこのことによって、アングロサクソン戦士団はブリテン島が定住に適していることに気づいた。アングロサクソンの戦士団は独立勢力となって自らの王国を築き、ブリトン人と対立するようになった。いわば、ミイラ取りがミイラになる形であった。
アングロサクソンの移民はふたつの波によってもたらされたとする考え方が現在支配的である。すなわち、まず戦士団がブリトン人の王に雇われるかたちで移入し、かれらが独立勢力となって土地を切り取り、つづいて大量の一般農民を招じ入れたとする過程である。一般農民の定住によって初めて、かれらはイングランドに根ざした勢力となりえた。
[編集] 七王国と支配関係
アングロサクソン時代のイングランドは七王国時代ともいわれるが、実際のところ存在した王国は100を超えると推定される。七王国と呼ばれるようになったのは、アングロサクソン年代記などによってあと付けされたためで、実際に七王国にあげられている諸王国とそうでない王国の間に確たる差があったわけではない。これらの王国は勢力争いを繰り広げたが、負けた王国は滅ぼされるわけではなく、勝利した側に臣従することによって一種のヒエラルキー構造をなしていた。この国どうしの臣従の慣習は、上位支配権もしくは宗主権(Overlordship)と呼ばれる。
諸王国は安定的な王位継承制度を確立しておらず、王の死亡によって王国とその力は簡単に瓦解することがしばしばであった。代々のブレトワルダは広大な地を上位支配権によって版図に組み込んだが、それに従う小王国は隙あらば独立の機を窺っていた。また王位継承をめぐる内紛もたびたび起こり、イングランドの統一やそれを目指すまとまった動きは見られなかった。
[編集] アングロサクソンの社会
アングル人・サクソン人は3ないし4の身分階級を有する階級社会であった。上位支配権によって臣従した小王国の王族出身であるエアルドルマンが支配階級となり、その従士たるイェシースやセインは土地所有階級だった。その耕地は一般農民チェオルルによって耕作されていたほか、奴隷も存在していた。奴隷は敗戦国の民衆や債務者などからなり、奴隷は有力な「交易商品」でもあった。アングル人の奴隷がローマで売買されていたという記録も残っている[1]。エアルドルマンやイェシース・セインに並んで交易商人や聖職者も特権階級を形成しており、当時の記録のなかには「祈る者、戦う者、働く者」の3階級で社会を説明するものもある[2]。
[編集] 地理的条件
マーシアの地理的条件を望見すると、北にノーサンブリア、南にウェセックス、西にウェールズのケルト諸国といった難敵に囲まれた地域であり、マーシア自体の版図はさほど大きくない。むしろ7世紀以降、上位支配権を得た小王国によってマーシアの支配地域は成り立っており、したがってマーシア本体が弱体化すればこれら小王国は旗色を変えて他の強国につくこともあった。こうした小王国の奪い合い、さらには強国どうしの上位支配権争いが常態化していた。ほとんどの王国を上位支配権によって臣従させた王は、のちにブレトワルダとよばれ、マーシアから2人を輩出した。
[編集] キリスト教の再布教
七王国時代は、イングランドにキリスト教が復興した時代でもあった。ローマ帝国の衰退によって、ブリテン諸島はいったんはキリスト教の圏外となった。流入してきたアングロサクソン諸部族は当初北欧神話に基づく信仰を有しており、キリスト教世界からみればイングランドは蛮族の地となっていた。スタフォードシャーのウェンズベリは主神オーディンの名に因むほか、英語の曜日名にも北欧神話の残滓が見られる。諸々の王国は次第にキリスト教に改宗していったが、マーシアは比較的遅くまでキリスト教に改宗しなかった。
[編集] 盛衰の過程

[編集] マーシアの成立
マーシアはスカンジナヴィア半島から渡ってきたアングル人で、そのなかでも最も西に進出し、ブリトン人支配地域に近かったため古英語Merce(辺境人、もしくは進軍する人々)からマーシアと呼ばれるようになった。しかしその出自については、他の七王国にもまして不明な点が多い。これはマーシアが文字記録を残すことに熱心でなかったこと、文化面で後進国であったことが影響しているが、考古学による発掘調査などから、6世紀にはテムズ川北岸に勢力を持っていたと推定されている。マーシアの名は現在も、イギリス陸軍の戦列歩兵メルシャン連隊やコヴェントリーのFMラジオ放送局「Mercia FM」などに残っている。
マーシアの初期の変遷については、残存する記録の少なさとその史料的信頼性の低さがあいまって定説をみない。伝説などからマーシアの起源をたどれば、ベオウルフの登場人物オルゲンシーオ[3](? - 515頃)に辿り着く。アングロサクソン年代記などによれば、エオメル[4]の子イチェル(? - 501頃)がアングル人の一派を率いて海に渡ってきたのは5世紀末のことで、マーシアの最初の王はクリオーダ(540頃? - 593)とされる。これら初期の王たちはいずれも半伝説的存在にとどまり、実在が間違いないと考えられているのはチェオルル(606頃 - 626)からである。
[編集] ノーサンブリアとの覇権争い
7世紀初頭はノーサンブリアが北のピクト人やスコット人、ウェールズのブリトン人などを圧迫して勢力を広げ、ブレトワルダの称号を得ていた。この時期の史料として歴史家ベーダが残したものが知られているが、ベーダ自身はノーサンブリア出身であり、マーシアとその王に関する記述は公平を欠くものと受け止められている。ベーダがマーシアをきらったのにはキリスト教に改宗していないという宗教的事情もあったが、それでもマーシアについて書かなければならないほど力をつけてきていた。ペンダ(? - 655?)王の頃にはイングランド中部の覇権をかけてノーサンブリアとしばしば争い、ハットフィールド・チェースの戦い(633)・マスターフィールドの戦い(642)に勝利してマーシアは強国にのし上がった。この勢いでブレトワルダの地位を手中に収めるかに見えた矢先、655年ウィンウェッドで決定的敗北を喫し、マーシア王ペンダが討ち死にしたばかりでなく、ノーサンブリアの傘下におさまることになった。
[編集] ウルフヘレによる再興
その後マーシアを立て直したのがウルフヘレ(? - 675)である。ノーサンブリアの従属国状態から脱し、ケント王国やワイト島など南部・南西部をその支配下におき、さらにキリスト教に改宗した。当時キリスト教に改宗することは、ヨーロッパから独立した島国ではなくキリスト教世界に組み込まれることを意味していた[5]。マーシアは着々と勢力を広げつつあったものの、このときの支配領域はイングランド南半分に限られ、また西のウェセックスの勃興にも手を焼き、イングランド全土にその支配を広げるのは8世紀も後半になってからのことである。
[編集] ブレトワルダ時代
マーシアは8世紀後半にふたりのブレトワルダを輩出した。すなわちエゼルバルド(? - 757)とオファ(? - 796)である。エゼルバルドは教会への課税を強化して国力を蓄え、西の難敵ウェセックスを屈服させた。こうしたエゼルバルドの積極政策は内外に敵を多く抱えることになり、エゼルバルドは自らの護衛によって暗殺された[6]。つづくオファの時代が、マーシアの絶頂期であった。永年の宿敵ノーサンブリアを屈服させて上位支配権を獲得したのみならず、支配下におさめていた小王国を解体させ、オファの親族や腹心を統治者として送り込んだ。
オファの防塁はハドリアヌスの長城にも劣らぬオファの歴史的偉業とされる。攻めてくるブリトン人を防ぐためのものか、切り取った地域を守るためのものか、その建設意図は明らかでない。この防塁に関して分かっていることは、すでにあった「ウォットの防塁」を延伸するかたちでイングランドとウェールズの間に築かれた。さらにフランク王国とも対等な外交を展開し、このように力を示したオファは「Rex Anglorum」すなわち全アングル人の王と自ら名乗った。
[編集] 衰退の時代
オファは死に際して後継者をエクグフリスにさだめ、臣下たちから忠誠をとりつけたが、肝心の後継者エクグフリスがオファの死後141日で没してしまい、ウェセックスなどいくつかの諸王がマーシアから独立した。混乱の極にあったマーシアをチェンウルフがまとめ、独立した諸国をただちに平定した。しかしウェセックスはマーシアに勝利して独立を確固たるものにし、さらに教会への課税を強制するほどの力はなくなっていた。折しもヴァイキングがブリテン島東岸に出没しはじめ、各港が襲われてきていた頃であった。
マーシアは没落への道を一直線かつ急速にたどったわけでは必ずしもないが、南西の強国ウェセックスはヴァイキングによる被害がほとんどなく、9世紀に入るとウェセックスの力に対抗しえなくなってきていた。幾度か独立を回復したこともあったが、基本的にはウェセックスの上位支配権をあおぐ形となった。868年にデーン人のブルグレッドがマーシア王位についたが、これが最後のマーシア王となった。ブルグレッドは874年追放され[7]、マーシアはデーン人とウェセックス王アルフレッドによって分割、歴史の表舞台から姿を消した。

[編集] マーシアの残した影響
マーシアはアングロサクソンの社会を色濃く残し、比較的ローマやキリスト教の影響の埒外にあった。いうなれば「野蛮な」勢力のひとつで、その性格は北に隣接する大国ノーサンブリアが早くからキリスト教に改宗して華やかな文化を築いたことと対照的だった。ロンドンを勢力下に収めてからは商業に力を入れ、王の肖像と名を刻印した貨幣を多く鋳造した。マーシアとその覇権は、イングランドに以下のような社会の変化をもたらした。
七王国時代のブリテン島は大小無数の王国が林立し、戦士団の首長として王が君臨していた。王は自らの威光を保つために戦って勝利しつづけなければならず、敗北と死は同義であるのみならず、安定的な王位継承制度など望むべくもなかった。マーシアの「トライバル・ハイデジ」はブレトワルダ時代に作成された徴税のための土地台帳である。マーシアは単なる戦士団としての王国から、統治機構としての王国へと変貌をとげつつあった。
七王国時代のイングランドは、ブリトン人もアングル人もサクソン人も、それぞれ個々の王国に拠って相争っていた。オファが「全アングル人の王」と名乗ったこと、さらにこの時期にヴァイキングの襲来が始まっていたことなどから、アングロサクソン人の間に仲間意識が芽生え始めていたという指摘もある[8]。イングランドは無数の小王国が林立する状態から統一へと舵を切りつつあった。
[編集] 脚注
- ^ 青山、p118.
- ^ Walker, p149.
- ^ 岩波文庫「ベーオウルフ」ではオンゲンセーオウとなっている。
- ^ J・R・R・トールキンは『指輪物語』の登場人物エオメルの名を、伝説上のマーシアの指導者エオメルからとった。
- ^ 当時イングランドにあたる地域は北部のノーサンブリアがキリスト教の布教が進んだ先進地域で、マーシアなど中南部は北欧神話にもとづく信仰を有していた。
- ^ 暗殺は相続争いによるもの、とする見解もある。青山、p99.
- ^ "Burged", Encycroædia Britannica.
- ^ 青山、p101.
[編集] 典拠
- 英語版記事 2006年9月13日参照
- Encycroædia Britannica 2005 DVD, Encycroædia Britannica inc.
- Walker, Ian W., Mercia: and the making of England, Sutton Publishing, Straud, Glaucestershire, 2000. ISBN 0750921315
- 青山吉信編「世界歴史大系 イギリス史 1」山川出版社、1991年。ISBN 4634460106
- 宮崎忠克「ことばから観た文化の歴史 アングロ・サクソンの到来からノルマンの征服まで」横浜市立大学叢書、東信堂、2001年。ISBN 4887133871