エイドリアン・ニューウェイ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エイドリアン・ニューウェイ(Adrian Newey、1958年12月26日 - )はイギリス生まれのF1テクニカルディレクター。
F1とCARTにおいてレースエンジニア、エアロダイナミシスト(空気力学の専門家)、デザイナーおよびテクニカルディレクターとして働き、両カテゴリーで名を成した。ニューウェイはF1における最高のエンジニアの1人とみなされており、彼のデザインした車は多くのタイトルとグランプリ勝利を挙げ、特に1990年代の長い時期においてグランプリを席巻した。
目次 |
[編集] 初期の経歴
ニューウェイはイングランド中部のストラットフォード・アポン・エイヴォンで生まれ、1980年にサウサンプトン大学の航空工学で一級優等学位(First Class honours degree)を取得。卒業後、F1のフィッティパルディチームに加入し、新人エンジニアながら空力チーフとしてハーベイ・ポスルスウェイトの下で働き、翌年にはマーチへと移籍した。ヨーロッパF2選手権でジョニー・チェコットのレースエンジニアとして働いた後、レーシングカーのデザインを始めた。彼の最初のプロジェクトであったマーチGTPスポーツカーは大成功したデザインであり、IMSAタイトルを2年連続で獲得した。
1983年にニューウェイはマーチのインディカー・プロジェクトに異動し、1984年型の車両開発を開始した。またしても彼のデザインは高い競争力を示し、1984年のインディ500を含む7勝を記録した。翌1985年、ニューウェイの85Cシャシーはアル・アンサーの手によりCARTタイトルを獲得し、1986年にはボビー・レイホールが同タイトルを奪取するに至って、彼のずば抜けたデザイナーとしての名声は不動のものとなった。デザイナーとレースエンジニアの掛け持ちを通じて、ニューウェイはレイホールとの緊密な信頼関係を築き、このことが15年を経て両者の経歴に重大な影響を与えることになる。
自身のデザインした車両がCARTレースで常勝するようになったことから、ニューウェイはマーチを退職する道を選び、欧州へと戻ってF1のFORCEチームに加入し改良作業を行う予定でいた。残念なことに同チームは1986年シーズンの結果が芳しくなかったために撤退してしまい、ニューウェイはすぐマーチに再雇用された。今度はF1においてチーフデザイナーとして働くためであった。
当時はまだF1カーの空力面に関する理解はまだ貧弱であったため、ニューウェイには技術革新の余地があった。1988年の彼の力作は多くの人間の期待よりはるかに競争力があり、日本GPにおいて、1周のみとは言え、自然給気エンジン搭載車(イヴァン・カペリ)ながら、ターボ車(マクラーレンのアラン・プロスト)を抜きトップを走るほどの快挙を見せた。
しかし彼の空力面の完璧さを目指すがあまり、翌年からはブレーキングやコーナリング、コースのバンプによって車高が変化するとシャシーが得られるダウンフォース量が急激に変化をし、ピーキーな特性を持ったハンドリングしにくいマシンになってしまった。それを改良しようとさらに空力面を追求してしまい、堂々巡りを続ける羽目になってしまった。
マーチがレイトンハウスに改名すると、ニューウェイはテクニカルディレクターに昇進した。彼はおそらくF1における最高のデザイナーであったのだろうが、チームの成績は下降線を描くようになり、1990年夏にニューウェイは解雇された。しかし、彼が新たな仕事を見つけるのに大した時間はかからなかった。
ちなみに、後を引き継いだグスタフ・ブルナーとクリス・マーフィーによってドライバビリティを見直した改良マシンCG901Bは、デビューしたフランスGPにおいて、イヴァン・カペリは終盤までトップを快走し、最終的に2位でフィニッシュした。
[編集] 1990年代を席巻
1990年、ウィリアムズは疑いの余地なく上昇基調にあったチームであり、同チームの優れたテクニカルディレクターであったパトリック・ヘッドは間髪を入れずにニューウェイとの契約を成立させた。莫大な予算と優れたドライバー、開発資源が自由に使えるようになり、ニューウェイとヘッドは1990年代初期において支配的なデザインパートナーとなった。1991年シーズン中盤には、ニューウェイのFW14シャシーは前年のチャンピオンであるマクラーレンと完全に肩を並べるまでになったが、シーズン序盤での信頼性に関わる問題とアイルトン・セナの才能に阻まれて、ナイジェル・マンセルがタイトルを奪取することはかなわなかった。
1992年に投入したFW14Bは、FW14にアクティブサスペンション(商標登録上、「リアクティブ・サスペンション」と呼ばれた)とトラクションコントロールシステムを搭載しただけのマシンであったが、車高が一定になることによって最もダウンフォースが得られる状態を常にキープすることが可能となり、ニューウェイデザインの問題であったピーキーな特性が解消され、圧倒的な速さを伴ってタイトルを獲得した。
これほどの圧倒的な強さは、この後フェラーリ/ミハエル・シューマッハ時代に至るまで見られなかった。マンセルはドライバーズチャンピオンを獲得し、ニューウェイも初のコンストラクターズタイトルを手にした。1993年にはFW15を駆るアラン・プロストによって2度目のタイトルを得た。
1994年、ニューウェイのデザインしたマシンは前年までのアクティブサスが非搭載となったためにニューウェイマシン独特のピーキーな性格が出てきて、チームとドライバーは性能・信頼性の両面においてロリー・バーンのデザインしたベネトンB194と互角に戦うことに苦労した。さらに、サンマリノGPにおいてアイルトン・セナの死という悲劇が襲った。シーズン後半の追い上げとシューマッハに対する出走停止処分に助けられながらも、ウィリアムズは3年連続のドライバータイトルを獲得することに失敗し、加えてセナの死亡事故に対して殺人罪による訴追の可能性が示唆されたことから、ニューウェイとウィリアムズチームの経営陣との関係にひびが入り始めた。
1995年までには、ニューウェイがテクニカルディレクターの座に就くであろうことは明らかだったが、ウィリアムズの共同創業者であるヘッドが彼の行く手を阻んだ。1995年に再びベネトンに敗れ、ドライバーズ/コンストラクターズの両タイトルを失ったことで、ニューウェイとウィリアムズの溝はさらに深まった。1996年にウィリアムズはデイモン・ヒルとの契約を更新しないことを決めたが、ニューウェイに事前の相談はされておらず、この事に激怒したと言われており離脱は決定的となる(デイモンとニューウェイは親友同士であった)。ヒルとジャック・ヴィルヌーヴによりダブル・タイトル奪還が決定した時には、ニューウェイはすでに退職してフリーの身となり、その後マクラーレンに加入した。
ニール・オートレイによってデザインされた1997年型マクラーレンの設計に影響を与えることは出来なかったため、ニューウェイはその改良をさせられるはめになったが、一方で彼は1998年型の車両に精力を集中した。1997年の最終戦ヨーロッパGPでの勝利によって、マクラーレンは幸福感を持ってシーズンオフに入り、4ヶ月の後にマクラーレンはグランプリ最強車となっていた。ミカ・ハッキネンが1998年と1999年にドライバーズ・タイトルを獲得、マクラーレンも1998年のコンストラクターズ・タイトルを獲得し、2000年にもハッキネンが最後までフェラーリのミハエル・シューマッハとドライバーズタイトルを争っていた。(惜しくも3年連続タイトルは逃した)
[編集] 2000年代前半
1990年代の終わり、ニューウェイのデザインした車両は67勝を数え、10回のコンストラクターズ選手権のうち6回を制覇し、同業者に対してずば抜けた実績を誇っていた。5年後にニューウェイの車両による勝利数の増加がわずか15に留まり、タイトルを取れずに終わるとはほとんどの人が予想だにしなかった。F1界ではミハエル・シューマッハをドライバーに迎えるよりも、ニューウェイと契約した方が勝利への近道という声も聞かれていた時期があったが、他ならぬシューマッハがフェラーリを駆って2000年以降の5シーズンを席巻する活躍を見せたことがその原因であった。
2001年夏、その年のもっとも重要な移籍劇のひとつが起きた。すでにドライバーを引退しジャガー・チームのマネージャーとなっていたボビー・レイホールは、ニューウェイをマクラーレンから引き抜いてジャガーをF1のトップチームにしようと画策したのだ。レイホールは契約書へのサインを得ることができたものの、マクラーレンのボスであるロン・デニスがニューウェイの残留に向けて説得したため、移籍を完了することができなかった。
彼がどのように説得したのかという詳細は今も曖昧なままであるが、ニューウェイにヨットをデザインすることを認めるという取引をしたのではないかという推測がレースメディアで示されている(ニューウェイがかねてから「F1からリタイアしたらアメリカスカップ用のヨットをデザインしたい」と希望していることは有名な話である)。ただその後マクラーレン在籍中にニューウェイがヨットをデザインしたという記録は残っていない。彼の心変わりは、ジャガーのオーナーであったフォードに対するレイホールの威信を事実上潰してしまい、数ヵ月後にレイホールは解雇された。
[編集] レッドブルへの移籍
マクラーレンに残留したものの、彼がチームを去りたがっているという噂は依然として残り、2004年終盤には彼がウィリアムズに戻る、あるいは完全にF1の仕事から手を引くのではないかという観測が現れるに至って、彼の未来は不確定となってきた。ロン・デニスが繰り返しこの噂を否定したものの、2004 - 2005年のオフシーズンにはニューウェイが近々離脱するという話が広まることとなった。
一方、マクラーレンは2005年シーズンに、それまでフェラーリ/シューマッハ一辺倒であったシーズンの流れを、ルノーとともに完全に主導権を奪い返すことに成功し、終盤戦までタイトル争いを繰広げるなど、「復活」を果たした。こうした中、2005年4月には、彼の契約が6ヶ月延長されて2005年12月31日までとなったことが発表された。その後に彼は長期休暇をとるか、または完全にF1のデザイン業務から引退すると予想されていたが、2005年11月9日、それまでの大方の予想を覆し、レッドブルチームのスポーティングディレクターのクリスチャン・ホーナーから、ニューウェイがマクラーレンとの契約終了後の2006年2月に同チームに移籍するということが発表された。