リチャード・ラッセル Jr.
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リチャード・ブリヴァード・ラッセル・ジュニア(Richard Brevard Russell, jr. ,1897年11月2日 - 1971年1月21日)は、アメリカの政治家。ジョージア州下院議員(1921年 - 1931年)、ジョージア州下院議長(1927年 - 1931年)、ジョージア州知事(1931年 - 1933年)、連邦上院議員(ジョージア州選出、1933年 - 1971年)を歴任。上院では上院仮議長(1969年 - 1971年)、歳出委員長(1969年 - 1971年)、軍事委員長(1951年 - 1953年、1955年 - 1969年)を歴任。所属政党は民主党。
ジョージア州ウィンダーに生まれる。ジョージア州パウダー・スプリングスの第7地区農業・技術学校を1914年に卒業、1915年にはジョージア州バーンスヴィルのゴードン・インスティテュートを卒業する。一方で1918年にはジョージア大学から法学士の学位を取得し、上院議員在任中の1957年、マーサー大学から法学修士号(LL.D)を取得している。第一次世界大戦中の1918年、ラッセルは海軍予備隊に入隊。1919年には故郷ウィンダーで弁護士を開業し、後にジョージア州バロウ郡の検事に就任する。ジョージア州下院議員として政界入り。州下院で頭角を現し議長にまでなる。1930年にジョージア州知事に当選。知事としては人種隔離政策を推進する。
1932年、ウィリアム・ハリス上院議員が在任中に死去する。ラッセルはそれに伴い行われた補欠選挙で当選し、36年、42年、48年、54年、60年、66年にそれぞれ再選される。39年にわたる長いキャリアを誇り、上院の長老、南部民主党のリーダーとして重きをなした。人種隔離政策の強力な擁護者として知られ、当然のことながらアフリカ系アメリカ人への公民権付与に反対し続けた。1948年には州権民主党に参加し、ストロム・サーモンドサウスカロライナ州知事を大統領候補として支持した。1952年、1956年には南部を代表して大統領予備選に出馬するも指名獲得に失敗する。1964年の公民権法を筆頭とした一連の公民権法反対の指揮を執り、人種隔離政策の維持と人種統合への反対を謳ったサザン・マニフェストを共同執筆、これに署名する。ラッセルはリンドン・ジョンソンとは師弟関係にあったが、後にジョンソンが大統領に就任し、公民権法制定を推進すると公民権問題を巡って決裂した。
だがその一方で温厚で親しみやすい性格と、経歴やそれに裏打ちされた見識、公明正大な態度からラッセルは政界の長老として尊敬を集めていたのも事実である。大変シャイな人物でもあり、生涯結婚することはなかった。さらには古代ギリシア・ローマ、南北戦争期のアメリカの歴史に対し造詣が深いことでも知られた。
ラッセルはジョン・F・ケネディ大統領暗殺後、事件を調査するケネディ大統領暗殺に関する大統領委員会、通称ウォーレン委員会のメンバーでもある。しかし、ラッセルは委員会の結論に批判的で、最初にメディアに対し懐疑的な意見を述べた。
ラッセルはワシントンD.C.のウォルター・リード陸軍医療センターで在任中に死去した。ラッセル上院ビルは彼にちなんで命名された。
カテゴリ: ジョージア州選出のアメリカ合衆国上院議員 | ジョージア州知事 | ジョージア州下院議員 | 1897年生 | 1971年没