ロッキンガム侯チャールズ・ワトソン=ウェントワース
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ロッキンガム侯チャールズ・ワトソン=ウェントワース(Charles Watson-Wentworth, 2nd Marquess of Rockingham,1730年5月13日 - 1782年7月1日)は、イギリスのホイッグ政治家。首相を2度務めた(在職:1765年7月13日 - 1766年7月30日、1782年3月27日 - 1782年7月1日)。首相として印紙法廃止の一方、13植民地に対する統治権の再確認を行い、本国・植民地両者の折衷をはかった。
ロッキンガムはアイルランド・ヨークシャーに広大な領土を持つロッキンガム侯爵家の五男として生まれた。ケンブリッジ大学セント・ジョン校を卒業し、兄がいずれも夭折したためロッキンガム侯家を継いだ。1751年から貴族院議員になり、しだいに貴族院のホイッグの中で頭角をあらわしてきた。ニューカッスル公が1762年に失脚すると、ホイッグの指導者を引き継いだ。
自由主義的改革を推進し、植民地人の主張に一定の理解を示した政策・改革を行った。植民地およびボイコットされた本国商人からの反対が強かった印紙法に印紙法撤廃法、植民地に強硬な勢力に配慮して宣言法(議会の植民地に対する統治権を宣言した法案)を、それぞれ成立させた。しかしこの措置はジョージ3世 (イギリス王)からも植民地人からも支持されなかった。結果としてロッキンガムは1年で職を解かれた。しかしこのときの政治的混乱で、ホイッグは国王支持(大ピット)派と野党(ロッキンガム)派に分かれた。これによって、ウォルポール以来のホイッグの優越は新しい局面に入ったとされる。
ロッキンガムの第2次内閣は、アメリカ独立戦争の敗北が決定的になった1782年であった。ノース政権が倒れて王と次期政権についてシェルバーン伯と会談した結果、ロッキンガムの再度の首相就任が決まった。ロッキンガムはアメリカ独立の承認とともに経済・行政機構の改革のための法案をいくつか通過させたが、首相就任後4ヶ月で急死をとげた。
ロッキンガムの死後も、彼の領袖は離散せずフォックス派となってシェルバーン伯や小ピットらの勢力と対立した。これによって派閥はたんなる人脈のまとまりから、ひとつの政党となっていった。この派閥が、19世紀の自由党に発展していった。
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