ヴィレム4世 (オランダ総督)
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ヴィレム4世(Willem IV van Oranje-Nassau、1711年9月1日 - 1751年10月22日)は、オラニエ公(在位: 1711年 - 1751年)およびオランダ総督(在位: 1747年 - 1751年)。オランダ(ネーデルラント連邦共和国)7州の総督を全て兼ね、また総督職の世襲を公認された最初の人物である。父はオラニエ公ヨハン・ヴィレム・フリーゾ、母はヘッセン=カッセル方伯カールの娘マリー・ルイーゼ。父の死の6週間後に生まれた。そのためヴィレムは生まれるとすぐにオラニエ公を継承したが、1713年にオランジュ(オラニエ)公国はフランスによって正式に併合されたため、以後オラニエ公の称号は名目上のみのものとなった。
1702年、ヴィレム3世が後継者なしに死去した後、父ヨハン・ヴィレム・フリーゾはナッサウ家傍系(ヴィレム1世の弟ヨハンの家系)からオラニエ=ナッサウ家を継承していたが、ホラント州他4州の総督職には就かず(これらの州は総督を置かず無総督時代になった)、フリースラント州とフローニンゲン州の総督を父から受け継いだのみであった。ヴィレムは2州の総督の地位を母の後見の下に継承し、1722年にはヘルダーラント州の総督にも任じられた。なお、オラニエ=ナッサウ家の継承については1702年以来プロイセン王家との間で対立が続いていたが、1732年にようやく決着がついた。
1734年、ヴィレムはイギリス王兼ハノーファー選帝侯ジョージ2世の長女アンと結婚した。2人の間の子供のうち2人は流産し、3人は夭逝して、成人したのはカロリーネ(ナッサウ=ヴァイルブルク家に嫁ぐ)、ヴィレム5世(オラニエ公)の2人だった。1739年と1743年にヴィレムは、ナッサウ家傍系のナッサウ=ディレンブルク伯家とナッサウ=ジーゲン伯家の所領を相続した。
1747年、オーストリア継承戦争に巻き込まれてフランス軍の侵攻を受けた連邦共和国は、イギリスの後押しもあって、ヴィレム4世を7州全ての総督に選出して陸海軍総司令官とし、その地位の世襲を宣言した。政務の経験はほとんどなかったものの、ヴィレムは有能な顧問官と民衆の人気に支えられ、1748年のアーヘンの和約で、連邦共和国は少なくとも損失は免れた。
ヴィレム4世は1751年に死去した。オラニエ公は幼い息子ヴィレム5世が母アンの後見の下に継承し、成人後に世襲になった全州総督の地位に就くこととなる。
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