中島衛
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中島 衛(なかじま まもる、昭和10年(1935年)12月23日~)は、昭和、平成期の日本の政治家。衆議院議員。宮沢改造内閣の科学技術庁長官。
[編集] 来歴・人物
昭和10年(1935年)12月23日衆議院議員中島厳の二男として長野県飯田市に生まれる。飯田高松高等学校(現在の長野県飯田高等学校)を経て、昭和35年中央大学経済学部を卒業する。卒業後、父の経営する信南交通に入社する。信南交通取締役、関連企業の石油輸入会社社長を経て、地元の飯田青年会議所理事長として青年実業家の道を歩み、仲間の若手企業家から政界へ進出するように薦められる。
昭和47年(1972年)第33回衆議院議員総選挙に旧長野3区から無所属で立候補し4万4000票を獲得するが、落選する。昭和51年(1976年)第34回衆議院議員総選挙で無所属で立候補し、約5万7100票を獲得し第2位で当選する。以後、当選6回。当選後、自由民主党に追加公認される。自民党では、党内刷新を旗印に一年生議員を集め「革政会」を結成し世話人となる。こうした中島に注目したのが当時田中派幹部であった金丸信である。金丸と中島はマージャン仲間としてしばしば卓を囲む仲となり、金丸直系とみなされる。昭和60年(1985年)創政会結成に参加。その後、竹下派に所属する。
金丸のひきで建設族議員として、建設政務次官、自民党建設部会長、道路調査会副会長を経て、平成2年(1990年)には衆議院建設委員長を歴任する。この間、リニアモーターカーや中央新幹線構想をぶち上げ、超党派の「中央新幹線建設議員連盟」で幹事に就任。また、「リニア中央エクスプレス建設促進期成同盟会」にも関与した。
平成4年(1992年)10月東京佐川急便事件が発覚、金丸が自民党副総裁、議員辞職に追い込まれたことを契機に竹下派が分裂すると羽田孜派に参加する。宮沢改造内閣では金丸直系ということで、入閣候補ではあったが実現は自他ともに難しいとしていた。しかし、金丸が宮沢首相に電話で「中島を入閣させてほしい。これが私の最後の頼みだ」と懇請。宮沢もこれを受け入れ、科学技術庁長官として羽田派から経済企画庁長官となった船田元とともに入閣した。
翌年の平成5年(1993年)宮澤喜一首相は、政治改革法案の実現を断念したことにともない、社会党、公明党、民社党などは、宮沢内閣不信任案を提出。羽田派はこれに同調し、中島は船田とともに、本会議を前に辞職し、不信任案に賛成票を投じた。6月18日内閣不信任案は可決、衆議院は解散となった(嘘つき解散を参照)。羽田派は自民党を離党し、新生党を結成した。
平成5年(1993年)7月18日第40回衆議院議員総選挙で自民党は過半数割れし、55年体制は崩壊した。中島は9万5668票を獲得しトップ当選を飾る。その後新生党では、政策担当幹事などを歴任する。平成6年(1994年)新進党結成に参加。平成8年(1996年)第41回衆議院議員総選挙で落選し政界引退。平成18年(2006年)旭日大綬章受章。
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