嘘つき解散
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嘘つき解散(うそつきかいさん)は、1993年6月18日の衆議院解散の通称。
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[編集] 概説
宮沢喜一首相がジャーナリスト田原総一朗とのインタビュ-『総理と語る』で「今国会中に政治改革を行います」と公約するも、党内意見をまとめきれずに次の臨時国会へ先送りした事に野党が反発して通常国会閉会前日本社会党の山花貞夫委員長が内閣不信任決議案を提出。与党・自由民主党の反対多数で否決されると思われたが、党内から造反者が続出して可決し、解散となった。
造反劇の発端は、前年に党内最大派閥経世会・竹下派(衆議院66人参議院41人)の金丸信会長が東京佐川急便事件で逮捕されると派閥領袖の跡目をめぐって竹下派7奉行の小渕恵三(橋本龍太郎、梶山静六)と羽田孜(小沢一郎、渡部恒三、奥田敬和)が分裂(衆議院で羽田、参議院で小渕とそれぞれが多数派になった)最終的に衆参両院の支持を集めた小渕が竹下派会長に就任し派閥を平成研究会(小渕派・衆議院31人参議院33人)と改める。敗れ去った羽田は、改革フォ-ラム21(羽田派・衆議院35人参議院8人)を結成。造反の最大の原因は、宮沢執行部の小渕派を優遇し羽田派を冷遇した事が理由とされる。
なお、解散の際、衆議院議長が「憲法七条により衆議院を解散する」と宣言した時、野党から「第六十九条ではないのか」と野次が飛んだ(内閣不信任可決による解散でも議長は「第七条による解散」と宣言するのが慣例となっている)。
解散後、武村正義・田中秀征ら10名(うち8名は不信任案に反対を投じていた)が自民党を離党して新党さきがけを結成したため、当初自民党を離党するつもりはなかった羽田らは自民党を離党して新生党を結成した(船田元・中島衛は閣僚を辞任)。自民党は過半数を大きく割り込んだ状況の中で第40回衆議院議員選挙を迎えるのである。
[編集] 経緯
- 6月21日 武村正義ら衆議院10人が離党して新党さきがけを結成。
- 6月25日 羽田孜が新生党を結成。
- 7月18日 衆議院議員総選挙で自民党が過半数を回復できず。新生党、新党さきがけ及び前年に細川護煕が結成した日本新党の保守3新党が躍進した。社会党は歴史的大敗。
- 7月29日 新生党の小沢代表幹事が提唱した非自民、共産の連立政権構想が樹立し首相統一指名候補の細川日本新党代表で一致した。
- 7月30日 自民党は、宮澤総裁(首相)の辞意表明で行われた自民党総裁選で河野洋平官房長官が渡邉美智雄前外相を破り新総裁へ。
- 8月9日 特別国会が召集(同月5日)され細川護煕内閣総理大臣が9日に誕生した事で55年体制が崩壊し38年ぶりの政権交代が実現した。
[編集] 不信任案に造反・欠席した自民党議員(反対投票後)
[編集] 新生党
羽田派
- 渡部恒三、石井一、中島衛、愛野興一郎、愛知和男、船田元、
- 熊谷弘、中西啓介、二階俊博、北村直人、畑英次郎、魚住汎英、
- 仲村正治、金子徳之介、前田武志、粟屋敏信、古賀正浩、村井仁、
- 井上喜一、岡島正之、井奥貞雄、高橋一郎、藤井裕久、星野行男、
- 松田岩夫、杉山憲夫、岡田克也、増田敏男、松浦昭(解散後、出馬せず引退)
- (病欠1人)木村守男
無派閥
- (賛成1人)小沢辰男
[編集] 総選挙後に離党又は残留した議員
[編集] 自由民主党
渡辺派
加藤グループ
河本派
- (病欠2人)前田正、今津寛
- (病欠・自民残留3人)渡瀬憲明、赤木徳彦、山本有二
小渕派
- (病欠1人)鳩山邦夫
無派閥
- (反対1人)西岡武夫
[編集] 新党さきがけ
河本派
三塚派
小渕派
宮澤派