久世広周
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久世 広周(くぜ ひろちか、1819年(文政2年) - 1864年7月28日(元治元年6月25日))は、江戸時代末期の大名。下総国関宿藩の第6代藩主。父は幕臣・大草高好(広周は次男)。正室は阿部正精の娘。子に広文、広業、娘(桜井供義室)ら。
幼名は謙吉という。官位は従四位下、大和守、侍従。文政12年(1829年)、第5代関宿藩主・久世広運の養嗣子となる。そしてその翌年、関宿藩主に就任した。嘉永4年(1851年)、老中となって阿部正弘らと共に諸外国との折衝に当たったが、井伊直弼の安政の大獄で直弼の強圧すぎる処罰に反対したため、直弼の怒りを買って罷免させられた。
万延元年(1860年)、直弼が桜田門外の変で暗殺された後、安藤信正の推挙を受けて再度老中に就任し、信正と共に公武合体政策を推進した。信正と共に政情不安が進む幕末の安定化を務める一方で、長井雅楽の航海援助なども行なった。
しかし文久2年(1862年)、信正が坂下門外の変で老中を罷免させられると、広周も公武合体の失敗や信正との連座などから罪を問われて、老中を罷免されて失脚となった。そして失意のうちに元治元年(1864年)、46歳で死去したのである。
法名:自護院殿倹徳忠山日秀大居士 墓所:東京都豊島区巣鴨の徳栄山総持院本妙寺
[編集] 官職位階履歴
※日付は旧暦
- 1830年(文政13)10月、家督相続
- 年不詳 従五位下隠岐守
- 1838年(天保9)8月15日、奏者番
- 1843年(天保14)10月8日、寺社奉行兼務。 12月、出雲守に転任
- 1848年(嘉永元)10月18日、西丸老中。 12月15日、従四位下に昇叙し、大和守に転任。
- 1849年(嘉永2)2月15日、侍従兼任
- 1851年(嘉永4)12月21日、老中
- 1857年(安政4)7月4日、勝手掛兼務
- 1858年(安政5)10月26日、外国御用取扱兼務。翌日、老中辞職。
- 1860年(万延元)閏3月1日、老中に復職。 閏3月9日、勝手入用掛兼務。 4月28日、老中首座。 12月1日、外国御用取扱兼務。
- 1862年(文久2)5月26日、勝手掛および外国御用取扱御役御免。 6月2日、老中御役御免。 8月16日、1万石召し上げ。隠居。 11月20日、永蟄居。
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