交響曲第2番 (ブルックナー)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クラシック音楽 |
---|
作曲家 |
ア-カ-サ-タ-ナ |
ハ-マ-ヤ-ラ-ワ |
音楽史 |
古代 - 中世 |
ルネサンス - バロック |
古典派 - ロマン派 |
近代 - 現代 |
楽器 |
鍵盤楽器 - 弦楽器 |
木管楽器 - 金管楽器 |
打楽器 - 声楽 |
一覧 |
作曲家 - 曲名 |
指揮者 - 演奏家 |
オーケストラ - 室内楽団 |
音楽理論/用語 |
音楽理論 - 演奏記号 |
演奏形態 |
器楽 - 声楽 |
宗教音楽 |
メタ |
ポータル - プロジェクト |
カテゴリ |
アントン・ブルックナーの交響曲第2番ハ短調は、1872年に最初の稿が完成された交響曲であり、彼が番号を与えた2番目の交響曲にあたる。
[編集] 作曲の経緯
ブルックナーは、交響曲第1番のあと、1869年にニ短調の交響曲を作曲した。当初、この作品に「第2番」の番号を与える意図を持っていたが、できばえに自信をなくしてこの曲を引っ込めてしまった(このニ短調の曲は、現在「交響曲第0番」と呼ばれている曲である)。
現在第2番と呼ばれている(作曲者自身も最終的に「第2番」の番号を与えた)作品は、その次に書かれたものである。1871年に着手され、1872年に初稿が完成した。同じ年、この譜面による初演を、指揮者デッソフにより計画されるも、中止された。
翌1873年に改訂がなされた。同じ年、ブルックナー自身がウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮して、この曲は初演された。
1876年、この曲の再演に際して細部の改訂がなされた。
1877年、ヨハン・ヘルベックの助言により、この曲は大幅改訂された。
その後、初版出版に際して1891年~1892年に細部の改訂がなされた。
[編集] 出版の経緯
1892年、ドブリンガー社から初版が出版された。これは、1892年までの改訂に加え、さらに弟子の校訂が加わっていると言われる。
その後国際ブルックナー協会の原典版編纂により、1838年、ハース版が出版された。ところがこのハース版は、1877年稿をベースにし、一部1872年稿を採用したものとなっていた。ハース自身そのことを明記して出版したのだが、このような校訂姿勢は、のちにノヴァークが批判するところとなった。
国際ブルックナー協会の校訂作業がノヴァークに代わった後、まず1965年に、1877年稿に基づくノヴァーク版が出版された。これはハース版から1872年の譜面を排除したものである。当時は単に「ノヴァーク版」と称されたが、後述の通り、後に1872年稿が出版されたため、この譜面は「第2稿」とも呼ばれるようになった。ノヴァークは1872年稿の校訂・出版も計画していたが、それを実現せず没した。
その後キャラガンが、この交響曲の校訂を引き継ぎ、1872年稿・1873年稿の譜面を校訂するとともに、1877年稿の譜面を再校訂した。1872年稿・1873年稿については、1991年にクルト・アイヒホルン指揮リンツ・ブルックナー管弦楽団がCD録音した。これらが収録されたCDの解説書には、キャラガン自身によるこれらの稿の解説が含まれていた。2005年には、国際ブルックナー協会から1872年稿が出版され「第1稿」と名乗るようになった。同時にそれまで出版されていたノヴァーク版第2稿も、キャラガンが再校訂し、「1877/1892年稿」と称して出版されるようになった。
ハース版として出版された譜面には、「vi-」「-de」と記されて囲まれた箇所がある(第2楽章・第4楽章)。これは1877年稿では本来存在しない部分であり、ハースもそのことを明記していた。ノヴァーク版第2稿は1877年稿を再現したとはいえ、ハースが「vi-」「-de」で囲った部分の譜面はそのまま残した形で出版した。
なお、1872年稿と1873年稿は相違点がかなり存在すると言われているが、現在の出版譜は「1872年稿=第1稿」「1877/1892年稿=第2稿」として扱われている。1873年稿については現時点では未出版である(ただし、出版されている1872年稿の中で、一部言及・併記されている)。
[編集] エピソード
- 1873年、ブルックナーはワーグナーと面会する。この次に作曲された交響曲第3番の草稿と、この第2番の両方の譜面をワーグナーに提示し、どちらかを献呈したいと申し出た。ワーグナーは、この第2番ではなく、第3番の方に興味を示した。
- この曲は、ウィーン・フィルへの献呈も申し出たが拒絶された。その後フランツ・リストへの献呈も申し出たが、果たせなかった。
- 全休止が多いので「休止交響曲」の俗称で呼ばれることもあった。また、自作の「ミサ曲ヘ短調」の「キリエ」の主題が引用された箇所がある。
- ブルックナーの初期の交響曲は、ヘ短調・第1番・第0番・第2番で、様々なスタイルを模索し、第2番で一つのスタイルを確立した、とも評される。実際、これらの中では、第2番がそれ以降の交響曲のスタイルに最も近い。
- 1872年稿は、のちの第8交響曲のように第2楽章がスケルツォ、第3楽章が緩徐楽章となっていた。しかし1873年の改訂で楽章順序は入れ替わり、第2楽章が緩徐楽章、第3楽章がスケルツォとなった。その後の改訂もこの楽章順を引き継いでいる。
- 1873年稿のみ、終楽章最後に「4番トロンボーン」が加わる。他のトロンボーンは「A・T・B」と記してあるが、これは「4」とのみ記されている。この部分のチェロ・コントラバスの音型の音量補強を意図したものと思われるが、この作曲家のオーケストレーションとしても他に似たような例はない。