仙谷由人
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仙谷 由人(せんごく よしと、昭和21年(1946年)1月15日 - ) は、平成期における日本の政治家。衆議院議員(5期)。弁護士。
生年月日 | 昭和21年(1946年)1月15日 |
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出生地 | 徳島県徳島市 |
出身校 | 東京大学法学部中退 |
学位・資格 | 弁護士 |
前職・院外役職(現在) | 弁護士 |
所属委員会 ・内閣役職(現在) |
衆・厚生労働委員会 衆・憲法調査特別委員会委員 |
世襲の有無 | 無 |
選出選挙区 (立候補選挙区) |
徳島1区 |
当選回数 | 5回 |
所属党派(現在) | 民主党(前原グループ) |
党役職(現在) | 次の内閣・厚生労働大臣 徳島県総支部連合会代表 |
会館部屋番号 | 衆・第1議員会館235号室 |
ウェブサイト | 衆議院議員 仙谷由人ホームページ |
目次 |
[編集] 経歴
- 徳島県に仙谷昌一、真喜子の長男として生まれる。
- 徳島県立城南高等学校を経て、1964年に東京大学法学部に進学し、東京大学在学中に司法試験に合格し弁護士免許を得る。 1971年から弁護士活動を開始する。
- 1990年2月18日の第39回衆議院議員総選挙に社会党公認で旧徳島全県区から立候補し当選する。当選後は、社会党を現実的に政権を担える党に脱皮すべく、ニューウェーブの会のメンバーとして活躍したが、1993年の宮沢喜一内閣不信任を受けて実施された第40回衆議院議員総選挙では、次点で落選した。
- 社会党を離党した仙谷は、民主党に参加。1996年10月20日の第41回衆議院議員総選挙で徳島1区から出馬し、当選を果たした。以後、4回連続で小選挙区で当選している。同年11月に党政務調査会長に就任した。1997年9月には幹事長代理に転ずる。2002年1月15日に胃癌の手術のため国立がんセンターに入院し、週刊朝日で告白記事を執筆する。
- 2004年5月に岡田克也新代表選出にともない、政調会長に就任。同時に民主党次の内閣で官房長官に就任する。
- 同年8月4日に国会議員35人は性急な1リーグ制移行の阻止と第三者協議機関の設置を目指す「日本プロ野球の更なる飛躍・発展とスポーツ文化振興による地域活性化を推進する会」の発起人代表として仙谷が就任した。
- 同年9月30日、右翼団体の男が衆議院通用門に車で突っ込んだ事件に関して、「政府の対応に不満を持つなら、目指すは官邸か内閣府だ」と述べ、テロ容認とも受け止められかねない不用意な発言として批判を浴びた。
- 2005年9月11日の第44回衆議院議員総選挙での記録的大敗後、自派閥に属す前原誠司が党代表に就任すると、次の内閣の厚生労働担当に納まった。このことは責任逃れと非難された。
- 2005年11月25日に民主党が設立した公共政策プラットフォーム(プラトン)初代代表理事に就任。
- また2006年2月16日に発生した堀江メール問題では当時国会対策委員長だった野田佳彦が責任をとり辞任した後に国対委員長に就任した渡部恒三から幹事長代理就任を要請され就任した。しかし次の内閣閣僚と兼任していたため、同年4月7日に党代表に選出された小沢一郎新執行部では再び次の内閣閣僚に専念することとなった。
- 2006年8月7日に韓国を訪問し、韓国の与野党党首と面談。小泉首相の「日韓関係悪化は、小泉という特異な人物のせい」であると釈明し、民主党のアジア重視政策を説明。北朝鮮問題などの解決に日韓の連携を訴えた。
- 2006年9月28日第165回臨時国会で衆議院決算行政監視委員会委員長に就任。
[編集] 著書
- 『香港軍票と戦後補償』 ISBN 4750305332
- 『焦眉―土建国家日本の転換』 ISBN 4341171925