前原誠司
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前原 誠司(まえはら せいじ、1962年4月30日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(5期)。民主党代表(第5代)。松下政経塾第8期生。
生年月日 | 1962年4月30日 |
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出生地 | 京都府京都市 |
出身校 | 京都大学法学部卒業 松下政経塾塾生 |
学位・資格 | 学士 |
前職・院外役職(現在) | 京都府議会議員 |
所属委員会 ・内閣役職(現在) |
衆議院予算委員会、外務委員会/委員 |
世襲の有無 | 世襲ではない |
選出選挙区 (立候補選挙区) |
京都2区 |
当選回数 | 5回 |
所属党派(現在) | 民主党(前原グループ) |
党役職(現在) | ブロック選出常任幹事(近畿)
京都府総支部連合会常任顧問 |
会館部屋番号 | 衆・第1議員会館601号室 |
ウェブサイト | 前原誠司-ホームページ- |
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
京都市左京区に生まれる。父は鳥取県境港市出身。母は鳥取県日南町出身。中学2年のころ父が借金苦により島根県奥出雲町において特急列車に飛び込み自殺する。父の死もあり、高校1年生から大学を卒業するまで奨学金を受けながら勉強する。
京大受験に失敗し浪人時代に偶然高坂正堯の『国際政治』を立ち読みし、国際政治における"歴史上のプレーヤー"に憧れることになる。外交官か、大学に残ろうかと考えていたところ、師にあたる高坂正堯の「外交官は京大出身では偉くなれないし、母子家庭なのでどうか」「学者は天才じゃないといかんがそれほど頭はよくない」「大学院に行くつもりで松下政経塾に行ってこい」とのアドバイスで政治家としての道を志すことを決意。その時、一人の政経塾生を紹介される。東京都議会議員であり、後に日本新党へともに参画する山田宏であった。その山田から感銘を受け、1987年松下政経塾へ第8期生として入塾する。(8期生として入塾してはいるが、その一年前に入塾を認められていた。ドイツ語の単位を落としたため、卒業が一年遅れたためである。同塾の入塾試験に二度合格した者は、現在まで前原のみ)同期生に玄葉光一郎や勝又恒一郎らがいる。
[編集] 京都府議
1991年松下政経塾を卒塾。同年の京都府議会議員選挙に立候補し、府議会史上最年少で初当選を飾る。
2005年9月、自身のウェブサイトの更新に伴い、京都府議時代の「環境対策委員、同和推進副委員長、厚生労働、文教委員」という役職に関して一部のインターネット上で話題となった。この経緯において「野中広務らと癒着した同和利権保持者である前原が、意図的に京都府議時代の同和推進副委員長という肩書きを隠蔽した」とする中傷が流れた。しかし「同和推進特別委員会副委員長」という肩書きに関しては、府議会に昭和33年6月定例会 - 平成9年6月定例会まで設置されていた特別委員会があり、自民党も公明党も共産党の議員も委員を務めていた正式の委員会であったこと、さらにその中での副委員長就任は各会派相談の上での割り当てであった。
また「野中広務との黒い癒着」(主として同和利権について)を疑惑として指摘する憶測が舞った。しかし、こちらも全く根拠は無く、むしろ癒着どころか当時から完全な敵対関係があった。実際には野中・野中後継を倒すために北神圭朗を財務省から抜擢し、京都4区に立てたこともあった。
そして、その後の経緯は野中が北神を裁判で訴えるという泥沼の戦いとなった。さらに同和推進副委員長の肩書きの割愛に関しては、ウェブサイトの簡素化に伴い、実際には同和推進副委員長の役職の他に、当時務めた他の環境対策委員・厚生労働委員・文教委員などの記述も同時に略歴から姿を消しており、さらには京都府議時代の箇所のみならず衆議院議員に当選して以降現在に至る履歴の簡素化と合わせて全体的な更新が行われた経緯がある。つまり、略式の経歴作成に伴い割愛された部分は、実際には一時期地方自治の中で務めた同和関連の役職の部分に限定されるものではなく、さらには京都府議時代のものだけに特定されるものでもなかった。 これら全てを踏まえれば、同和利権や野中広務との交友が実際にあったとする意見は牽強付与の感が強く、非常に疑わしい。 以上を疑惑として追求・指摘する識者もいない。
むしろ同和団体との関連については、1994年に部落解放同盟が中心になって進められた部落解放基本法制定要求国民運動大会に出席し、『「(部落解放)基本法」制定へ積極的に努力していく。』と発言していることが注目される。
[編集] 日本新党 - 民主党
1992年長浜博行に請われ、野田佳彦、山田宏、樽床伸二、中田宏らとともに日本新党へ参画。同年の第16回参議院議員通常選挙では近畿・四国エリアで応援に回り、新党ブームに一役買う。
1993年の第40回衆議院議員総選挙で日本新党から立候補して初当選を飾るも、佐川急便事件で細川内閣が総辞職。その後、枝野幸男、荒井聰、高見裕一らとともに日本新党を離党し、民主の風(院内会派)を結成する(政経塾の先輩で兄貴分的な存在であった山田は、前原が恩人たる党首細川護煕に対して後ろ足で砂をかけるように出で行った事と離党に関して自分に一切の相談が無かった事に激怒した)。さらにその2ヵ月後には民主の風のメンバーとともに新党さきがけに合流し菅直人政調会長のもとで政調副会長、渡海紀三朗院内幹事(国会対策委員長)の下で院内副幹事(国対副委員長)をそれぞれ歴任する。96年総選挙直前に旧民主党結党参加。
安全保障分野に関して、ネオコン的なタカ派路線・親米路線を取り、額賀福志郎など自由民主党の防衛族議員からも一目置かれている。ただし友好関係は防衛族に親中派が多いことから薄い。前原が安全保障分野の知識を如何なく発揮したのは2003年の政府・与党の有事関連法案への対案として民主党が提出した「緊急事態・未然防止基本法案」及び「武力事態対処法案」の内容を盛り込むよう、修正協議の実務レベル交渉の担当になったときである。この交渉は前原に法案の不備を突かれた与党が、法案の修正を余儀なくされた。
[編集] 民主党代表
2005年9月11日第44回衆議院議員総選挙で民主党は大敗を喫した。党代表の岡田克也は辞意を表明。前原は岡田後継の代表選挙に立候補し、9月17日菅直人を破り第5代代表に選出された。前原の代表就任には、民主党が一気に代表を若返らせたことから、読売新聞などの巨大メディアが、“新代表はジャニーズ系”、“永田町の郷ひろみ”と報じ、話題を呼んだ。
代表就任後は日本労働組合総連合会等の労組との関係を見直すと主張。労組とは党との考え方の違いを率直に議論しながら是々非々の関係を構築し、労組依存の体制から脱却して行くことを掲げた。政治運営に関しては対案路線を明確にし、主要な法案については積極的に対案を提出すると宣言し、主要メディアから高く評価された。初めての代表質問に関しては、威風堂々と巨大メディアの多くがロゴを打った。
2005年12月2日に東京の大学において講演した際、日米安保と防衛の一方的な依存は、アメリカに対する「過度の甘え」であると、自民党の対米追従を批判した。平成17年12月中旬の自らの米中歴訪では、中国の軍事的脅威に対して日本は毅然とした態度を取るべきという従来からの持論を展開した。
同年12月9日(現地時間8日)の米戦略国際問題研究所(CSIS)における講演では、中国の軍事力増強について現実的な脅威と指摘し(中国脅威論)、またシーレーン(海上交通路)防衛の要求上、日本の集団的自衛権を認めるべく憲法改正の必要性を訴えたが、これには民主党内左派から党内合意を経ていないとの批判を受けたほか、中国政府の反発を呼び、あらかじめ予定されていた会談を中国側がキャンセルする事態に繋がった。
同13日に前原は訪問先の北京で記者会見を開き、中国脅威論の主張を根拠に要人との会談を拒否した中国政府の対応を批判して、「(率直に物を言わぬうわべでの)友好は砂上の楼閣になってしまう」と指摘した。
中国脅威論や日本国憲法第9条改正の立場を明確に打ち出しているため、党内外の護憲派には前原をタカ派と評す者もいる。しかしながら、99年7月に国旗国歌法案の採決で反対票を投じたり、靖国神社参拝に消極的であったり、外国人参政権に対する賛意を述べる点など、政策ごとに物事を判断しており、他の松下政経塾出身者同様、旧来の政治スタンスの枠組みに囚われない新しいタイプで1つの枠組みでは括れないところがある。
2006年 堀江メール問題に関連して、十分な証拠を開示出来なかったために前原が自民党にこのメールの信憑性を裏付けるための国政調査権発動を要請。だが、メールの信憑性が低いために逆にこの追求が批判を浴び、前原や民主党の立場を弱まらせることになり自民党からは非難の声が上がり、民主党への抗議の電話が殺到した。
2006年2月26日に出演したテレビ朝日の番組「サンデープロジェクト」において、永田寿康のメール問題について、司会の田原総一朗から厳しい追及を受けたが、「報告は伺っております」を繰り返すのみに終始した。
この問題で前原党首の進退問題まで言われることになったが、2月28日に謝罪会見を行い党首続投を宣言した。しかし代表選挙で前原陣営の選挙対策委員長として票を取りまとめ、前原の意思を尊重して国会運営を当たっていた野田佳彦国会対策委員長の引責辞任を余儀なくされ、執行部の右腕を失う結果になってしまった。 2006年3月31日代表の引責辞任を表明。前原の辞任表明を受けて、鳩山幹事長も幹事長辞任を表明、永田寿康も代議士辞職を表明した。4月7日の民主党代表選で小沢一郎が当選し、代表職を離れる。
[編集] 民主党
党代表辞任後は「今は蟄居の身だから。」と公式の場での発言を控えていたが、2006年10月衆議院議員補欠選挙では選挙の直前に、テレビ各局で、北朝鮮の核実験を厳しく非難するとともに、民主党執行部の「周辺事態」論議を痛烈に批判した。これによって、安全保障政策における民主党執行部と前代表である前原や彼に同調する勢力との亀裂が表面化するとともに、党の方針を小沢、菅、鳩山のいわゆるトロイカのみで決定するべきではないという執行部への批判も噴出することとなった。また、「『核保有を議論すべきではない』との考えか」かとの質問に対し、「『議論をすべきではないとは考えていない』が、現在の状況では議論すべきでない」と発言し、一応は平時の核議論を容認した。だが、自身の公式サイト、産経新聞などで、「日本が核を保有したとしても、核保有国であるアメリカや中国と瀬戸際外交を行う北朝鮮に対する抑止力とは成りえず、核拡散防止条約からの脱退も余儀なくされ、国際社会からの制裁を受けると共に、一連の流れによって日本自身がNPT体制を脆弱にし、結果的に北朝鮮やイランの核保有をゆるしてしまう。また、アメリカとの同盟関係を見直してまで今すぐ日本が核を持つことに意義は見当たらない。」といった趣旨の見解も示したことから、日本の核武装に関して基本的には反対の立場をとっている。また、核武装論議にも批判的である。
[編集] 人物像
- 安全保障政策では党を代表し、政府側と交渉に当たってきた。党内では「次の内閣」ネクスト外務大臣、ネクスト防衛庁長官なども務めた。平成14年(2002年)9月の代表選挙では、菅直人、鳩山由紀夫の二枚看板(いわゆる「鳩菅体制」)に危機感を覚え、世代交代を図るため「第二期民主党をつくる有志の会」を結成する。若手統一候補として同じ松下政経塾出身者の野田佳彦と並び、代表選候補に名前があがったが、最終的に(小宮山洋子ら自身の推薦人名簿に名を連ねる予定だった国会議員とともに)野田を推薦する側に回った。このことが、後の代表選挙で野田が前原を支持するきっかけになった。党代表就任後は、対案路線を掲げ、特に自らライフワークと位置づける外交、安全保障政策を党内で取りまとめるために、リーダーシップを発揮せんとしていたが、党代表就任後、半年で堀江メール事件での対応の責任を取って失脚を余儀なくされた。後継代表の小沢一郎との対立も、しばしば指摘されている。
- 尊敬する政治家は広田弘毅、好きな歴史上の人物は坂本龍馬。愛読書は城山三郎の「落日燃ゆ」。その他にも歴史小説を好んでよく読むという。
- 趣味はSL写真の撮影ならびに収集、時刻表の分析、妻との食事、ドライブ。国会議員随一の鉄道ファン(特にSL写真の撮影旅行)と言われている。また、新婚旅行先は「現役のSLが走っている」という理由で北海道だった。高価な機関車のプレートを、我慢できずに購入した時は夫人を嘆かせてしまったと言うエピソードもある。師の高坂正堯と同じく熱狂的な阪神タイガースファンで、高校時代は野球部に所属していた。
- 2005年12月発行の書籍物「国鉄時代」(ネコ・パブリッシング発行)第4号には、「親父と罐へのレクイエム」と言うタイトルで記事を執筆している。ただし、記事内に「民主党代表」や「議員」との記述は一切無い。
- 永田町を代表するプロレスファン、格闘技マニア。
- 2006年9月自由民主党総裁・内閣総理大臣となった安倍晋三とは、前原と93年衆院初当選同期で議員会館も隣の部屋、ともに安全保障政策に関しては急進的で気心知れた仲である。
[編集] 年譜
- 京都市立修学院小学校卒業(3月)
- 京都教育大学附属京都中学校卒業(3月)
- 京都教育大学附属高等学校卒業(3月)
- 京都府議会議員選挙(左京区・無所属)当選(4月)
- 第40回衆議院議員総選挙(旧京都1区・日本新党公認)当選(7月18日)
- 第42回衆議院議員総選挙(京都2区・民主党公認)3期目当選(6月25日)
- 党幹事長代理就任
- 第43回衆議院議員総選挙(京都2区・民主党公認)4期目当選(11月9日)
- 第44回衆議院議員総選挙(京都2区・民主党公認)5期目当選(9月11日)
- 党代表就任(9月17日)
- ライブドア送金指示メール騒動の責任を取り、党代表を辞任。後任は小沢一郎。(4月7日)
[編集] 書籍
- 『石破茂・前原誠司ほかが集中講義!日本の防衛 7つの論点 別冊宝島Real』 ISBN 4796647899
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 前原誠司-ホームページ-(公式サイト)
- 民主党京都府総支部連合会ホームページ
- 松下政経塾
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