伊奈忠政
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伊奈 忠政(いな ただまさ、天正13年(1585年) - 元和4年3月10日(1618年4月5日))は江戸時代初期の代官頭。関東郡代伊奈忠次の嫡男。正室は酒井重忠の娘。子に伊奈忠勝、伊奈忠隆、娘(加賀爪直澄室)、娘(片桐孝利室)。筑後守。二代武蔵国小室藩主。
父忠次に従って徳川家康の下で奉行職についていた。関ヶ原の戦いやその前哨戦である上杉征伐などに従軍、主に小荷駄奉行や後方支援などに従事してようである。家康が江戸に入ると父と共に検地や新田開発、河川改修にたずさわり、慶長15年(1610年)に父忠次が没すると、遺領を相続し関東郡代職を継いだ。
その後も大坂の役に従軍し冬の陣では外堀を埋め立てる際に普請奉行を務め、長柄川を堰き止める作業などに才を発揮、また夏の陣では首級実に三十を挙げるなど活躍し、名実共に父忠次の後続者と目されていた。
しかし、そのわずか三年後、34歳の若さで没する。嫡子の忠勝は幼子で、関東郡代職は弟の伊奈忠治が継いだものの、忠勝は8歳で病死してしまい、武蔵小室藩は無嫡廃絶となってしまうが断絶を惜しんだ幕府が、弟忠隆に小室千五百石余を与えて旗本に取りたてたという。
千葉県船橋市にある、日本一小さな東照宮として有名な船橋東照宮は家康の命を受けた忠政が建立したものと伝わる。
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