伊奈忠次
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伊奈 忠次(いな ただつぐ、天文19年(1550年) - 慶長15年6月13日(1610年8月1日))は江戸時代初期の代官。
幼名は熊蔵。三河国幡豆郡小島城(現在の愛知県西尾市小島町)主の伊奈忠家の嫡男(祖父とされる伊奈忠基の末子との説もあり)。子に忠政、忠治、忠武、忠公、忠雪。備前守。初代武蔵国小室藩主。
[編集] 略歴
伊奈氏はもともと信濃国伊奈郡(伊那郡)の出自であると伝えられる。忠次の祖父忠基のころに徳川家康の父松平広忠に従い、三河譜代の家臣として活躍した家系である。永禄6年(1563年)父忠家の代に三河一向一揆に加わるなどして出奔、天正3年(1575年)の長篠の戦いに陣借りをして従軍して功を立て、ようやく帰参することができた。だが家康の嫡男であった信康の家臣に父忠家と共につけられるものの、その信康が武田氏との内通の罪により自刃させられてしまうと、再び出奔することとなってしまい、和泉国堺に在した。
天正10年(1582年)に本能寺の変が勃発し、堺を遊覧中であった家康を本国へと脱出させた「伊賀越え」に小栗吉忠らと共に貢献する。この功により再び帰参が許され、父忠家の旧領小島を与えられた。また三遠奉行の一人として検地などの代官であった吉忠の同心となり、後、吉忠の跡を継ぐ形で代官衆の筆頭になる。以後駿・遠・三の奉行職として活躍、豊臣秀吉による小田原征伐や朝鮮の役では大軍を動かすための兵糧や小荷駄の輸送、街路整備などを一手に担い、代官としての地位を固めた。
家康が江戸に移封されたのちは関東郡代(当時は「関東代官頭」と称された)として大久保長安、彦坂元正、長谷川長綱らと共に家康の関東支配に貢献し、61歳で没した。墓所は埼玉県鴻巣市の勝願寺。
[編集] 忠次の功績
武蔵国足立郡小室(現埼玉県北足立郡伊奈町小室、町名は忠次に由来する)および鴻巣において一万石を与えられ、関東を中心に各地で検地、新田開発、河川改修を行った。利根川や荒川の付け替え普請、知行割、寺社政策など江戸幕府の財政基盤の確立に寄与しその業績は計り知れない。関東各地に残る備前堀や備前堤と呼ばれる運河や堤防はいずれも忠次の官位「備前守」に由来している。
諸国からの水運を計り、江戸の繁栄をもたらした忠次は、武士や町民たちはもとより、農民に炭焼き、養蚕、製塩などをすすめ、桑、麻、楮などの栽培方法を伝えて広めたため、農民たちからも神仏のように敬われていたという。現在、東北新幹線と上越新幹線が分岐し、埼玉新都市交通伊奈線(ニューシャトル)の車両基地が存在する伊奈町大字小室字丸山に伊奈屋敷跡がある。
伊奈町音頭は「ハァ~伊奈の殿様忠次公の(ヤサヨイヤサ)」と歌い出される。
[編集] 関連項目
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