伊奈忠治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊奈 忠治(いな ただはる、文禄元年(1592年) - 承応2年6月27日(1653年7月21日))は江戸時代初期の代官頭。通称半十郎。関東郡代伊奈忠次の次男。兄に伊奈忠政。子に忠克、治詣、忠重。
[編集] 略歴
父伊奈忠次の死後、跡を継いだ兄忠政が1618年に若くして没してしまい、その子忠勝が幼子であったために跡を継いで関東郡代となる(忠勝はその後わずか9歳で病没し、小室藩は無嫡廃絶となる)。関東郡代となる前から幕府に勘定方として出仕しており、武蔵国赤山(現埼玉県川口市赤山)に既に七千石で赤山陣屋を拝領していたため、兄忠政配下だった代官の多くが忠治の家臣となったという。
忠治は父、兄の仕事を引き継いで関八州の治水工事、新田開発、河川改修を行った。荒川開削、江戸川開削に携わり、また江戸初期における利根川東遷事業の多くが忠治の業績であり、鬼怒川と小貝川の分流工事や下総国、常陸国一帯の堤防工事などを担当した。なお、この業績を称えて忠治を祀った伊奈神社が茨城県筑波郡谷和原村にあり、茨城県筑波郡伊奈町は町名を忠治に由来する。(谷和原村と伊奈町は2006年3月27日に合併し、つくばみらい市となった)
[編集] 忠治の業績
- 吉見領囲堤 元和年間(1615年~1624年)
- 荒川瀬替え 寛永6年(1629年)
- 見沼溜井、八丁堤 寛永6年(1629年)
- 鬼怒川・小貝川分流 寛永6年(1629年)~寛永7年(1630年)
- 新綾瀬川開削 寛永7年(1630年)
- 江戸川開削 寛永12年(1635年)
- 佐伯渠 寛永12年(1635年)
- 北河原用水 正保元年(1644年)