伊東スタジアム
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伊東スタジアム(いとうスタジアム)は、かつて静岡県伊東市にあった野球場。開場当初は隣接するホテル伊東スタジアムが運営管理していた。後年はヤオハンジャパンが運営管理を行っていたが2004年を以って閉鎖、施設は撤去された。
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[編集] 歴史
1952年、温泉ホテルの敷地内に開場。こけら落としとして同年5月、プロ野球・パ・リーグ公式戦大映スターズ対東急フライヤーズ戦が開催されたが、公式戦で使用されたのは同年の3試合と、翌1953年の1試合の計4試合にとどまった。
伊東市は首都圏から程近く、また気候も比較的温暖であることから、伊東スタジアムでは春季・秋季にはプロ球団がキャンプに使用したり、選手が自主トレーニングに使用した例が多数ある(後述)。
しかし後年は老朽化が著しく、また1980年代に入るとプロ野球のキャンプは、より温暖な四国地方や九州地方、沖縄県などで行われるようになった。また1989年には沼津市に静岡県愛鷹広域公園野球場が、市内にも1995年に軟式専用の伊東市営かどの球場が相次いで開場したことから、伊東スタジアムは1988年を最後に使用されなくなったものの、施設そのものは存続した。またホテル伊東スタジアムの所有権は後年、ヤオハンジャパンに移ったが、同社が1997年に経営破綻してホテルが閉鎖されると、スタジアムはほとんど管理されなくなった。ホテルとスタジアムは2004年に取り壊され、跡地には市が運営する老人養護施設が建設された。
[編集] 主なエピソード
伊東スタジアムをキャンプで使用したのは読売ジャイアンツ(巨人)、ヤクルトスワローズ、大洋ホエールズ、東映フライヤーズなど(いずれも球団名は当時のもの)。球史に遺るエピソードもいくつか生まれている。
- 1967年2月のある日、東映の春季キャンプの夜間練習中、打撃コーチの飯島滋弥は3年目の若手・大杉勝男とマンツーマンで素振りを行っていた。飯島は大杉に対して、伊豆を舞台にした小説「金色夜叉」の月を引き合いに出し、“フォームを小さく固めず、思い切ってバットを振りぬくように”という意味合いを込めて「今月今夜のあの月に向かって打ってみなさい」とアドバイス。大杉は同年、開幕から5番に定着。打率.291、本塁打27本を記録し、ベストナインにも選出された(なお、この「月に向かって打て」の初出に関してはこの1967年の伊東説の他、1968年9月の東京オリオンズ戦説もある)。
- 1979年、巨人はシーズン5位に終わった。同年10月下旬から行われた秋季キャンプは、長嶋茂雄ら首脳陣の意向で下位低迷の打開策として、若手選手の底上げを目的に1ヶ月に亘る長期キャンプとなった。参加したのは中畑清、淡口憲治、篠塚利夫、松本匡史、平田薫、山本功児、河埜和正、山倉和博、江川卓、西本聖、角三男、藤城和明、鹿取義隆ら、「V9」を経験していない若手主体のメンバー。伊東スタジアムでは連日、徹底的な厳しい練習が行われ、「地獄の伊東キャンプ」と揶揄された。当時この地獄のキャンプを経験した選手らは引退後「伊東会」を結成し、現在も親睦を深めている。
[編集] 施設概要
- 両翼:90m、中堅:120m