大杉勝男
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大杉 勝男(おおすぎ かつお、1945年3月5日 - 1992年4月30日)は、岡山県勝田郡奈義町出身のプロ野球選手(内野手)。右投げ右打ち。
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[編集] 来歴・人物
関西高校を卒業後、社会人野球チームの丸井に入るが、入部1年目で野球部が解散。1965年、東映フライヤーズの入団テストを受けて合格し、プロ野球選手となる。この年東映の打撃コーチを務めた藤村富美男は、当時の大杉を「あんな手首の強い選手を見たことがない」と評していた。
入団後、「月に向かって打て」のエピソードで有名な飯島滋弥コーチの指導のもと練習を重ね、1967年よりレギュラーに定着。1968年より6年連続30本塁打、1970年からは3年連続40本塁打を放ち、1970年・1971年と2年連続本塁打王、また1970年・1972年と2度の打点王に輝いている。張本勲、大下剛史らと共に、60年代後半~70年代前半の東映、日拓、日本ハムを打撃面で支えた選手の一人である。
1975年、ヤクルトスワローズにトレード移籍。一時スランプに陥るが、腕の感覚がなくなるまで素振りを行うなどの猛特訓の末に克服し、1977年には打率.329、31本塁打、104打点という成績を残した。翌1978年も同様の活躍を見せて球団のリーグ初優勝に貢献、日本シリーズではMVPに輝いた。1981年には.343という高打率を記録するが、首位打者には及ばなかった。1983年、現役を引退。前人未踏の両リーグ1000本安打を達成するも、両リーグ200本塁打には、惜しくもあと1本及ばなかった。
翌1984年からフジテレビの野球解説者となり、1990年に横浜大洋ホエールズの打撃コーチに就任したが、1991年に病気のため退団。1992年4月30日、肝臓ガンにより47歳の若さで逝去。東映時代の同僚であった張本は、大杉の臨終の際「おいっ、スギ、起きろっ」と弟分の早過ぎる死を悲しんだ。
[編集] 所属球団
- 東映フライヤーズ→日拓ホームフライヤーズ→日本ハムファイターズ(1965年 - 1974年)
- ヤクルトスワローズ(1975年 - 1983年)
- 横浜大洋ホエールズ・打撃コーチ(1990年 - 1991年)
[編集] 背番号
- 51 (1965年 - 1972年、1974年)
- 3 (1973年)
- 8 (1975年 - 1983年)
- 88 (1990年 - 1991年)
[編集] タイトル・表彰・記録
- 本塁打王 2回(1970年 - 1971年)
- 打点王 2回(1970年、1972年)
- 最多安打 1回(1971年)
- ベストナイン 5回(1967年、1969年 - 1972年)
- ゴールデングラブ賞 1回(1972年)
- 日本シリーズMVP 1回(1978年)
- オールスターゲーム 出場8回(1967年、1969年、1970年、1972年、1973年、1974年、1977年、1981年)
- オールスター最優秀選手(1967年第3戦)
- 野球殿堂入り(1997年)
- 6試合連続本塁打(1973年10月2日~10月9日)
- 5試合連続本塁打(1969年6月20日~6月26日)
- シーズン最多サヨナラ本塁打 3(1969年)
- シーズン最多犠飛 15(1970年)
[編集] 打撃成績
年度 | チーム | 試合 | 打率 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 四球 | 死球 | 三振 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1965年 | 東映 | 60 | .192 | 104 | 20 | 1 | 13 | 0 | 5 | 1 | 23 |
1966年 | 東映 | 101 | .269 | 186 | 50 | 8 | 28 | 1 | 7 | 5 | 29 |
1967年 | 東映 | 134 | .291 | 491 | 143 | 27 | 81 | 1 | 46 | 8 | 107 |
1968年 | 東映 | 133 | .239 | 476 | 114 | 34 | 89 | 4 | 51 | 5 | 106 |
1969年 | 東映 | 130 | .285 | 495 | 141 | 36 | 99 | 3 | 43 | 7 | 77 |
1970年 | 東映 | 130 | .339 | 492 | 167 | 44 | 129 | 5 | 44 | 5 | 61 |
1971年 | 東映 | 130 | .315 | 489 | 154 | 41 | 104 | 7 | 63 | 6 | 65 |
1972年 | 東映 | 130 | .295 | 492 | 145 | 40 | 101 | 0 | 57 | 8 | 58 |
1973年 | 日拓 | 130 | .270 | 478 | 129 | 34 | 85 | 3 | 59 | 4 | 56 |
1974年 | 日本ハム | 130 | .234 | 461 | 108 | 22 | 90 | 4 | 48 | 4 | 73 |
1975年 | ヤクルト | 115 | .237 | 389 | 92 | 13 | 54 | 1 | 30 | 5 | 64 |
1976年 | ヤクルト | 121 | .300 | 423 | 127 | 29 | 93 | 0 | 35 | 5 | 43 |
1977年 | ヤクルト | 123 | .329 | 453 | 149 | 31 | 104 | 0 | 37 | 7 | 65 |
1978年 | ヤクルト | 125 | .327 | 462 | 151 | 30 | 97 | 0 | 47 | 4 | 51 |
1979年 | ヤクルト | 118 | .242 | 413 | 100 | 17 | 68 | 1 | 38 | 3 | 74 |
1980年 | ヤクルト | 118 | .301 | 425 | 128 | 21 | 82 | 0 | 25 | 3 | 42 |
1981年 | ヤクルト | 120 | .343 | 414 | 142 | 20 | 78 | 1 | 33 | 2 | 43 |
1982年 | ヤクルト | 88 | .282 | 298 | 84 | 17 | 59 | 1 | 22 | 0 | 39 |
1983年 | ヤクルト | 99 | .261 | 322 | 84 | 21 | 53 | 0 | 23 | 3 | 40 |
通算 | 2235 | .287 | 7763 | 2228 | 486 | 1507 | 32 | 713 | 85 | 1116 |
(表中太字はシーズンのリーグ最高記録)
[編集] エピソード
- その風貌がタレントの毒蝮三太夫に似ていたため、口の悪いチームメイトからは、「毒マムシ」という渾名で呼ばれていた。しかし、その人相や風体に似合わず無類の愛妻家であった。毎日克明に日記を記していたが、その内容の殆どは妻へ宛てたものであったと、逝去後の特集番組で夫人が明らかにしている。
- 東映のブラジル遠征の折に「(飛行機が墜落して)私が死んだら、誰が母の面倒を見るんですか」と船移動を球団に直訴したり(当然却下)、前日のクロスプレーを巡って殴り倒したカール・ボレス(西鉄ライオンズ)に翌日謝罪するなど、その実直な人間性で人気の選手だった。また、他の選手がアドバイスを求めると、相手が敵チームの選手であったとしても、自分の練習時間を削ってまでとことんコーチ役を買って出ていたと言う。
- 腕っぷしが強いことでも有名で、球界で一番喧嘩が強いという噂もあった。自軍の選手への攻撃に対しては容赦なく立ち向かい、ヤクルト時代には死球を与えた投手に襲い掛かったジョン・シピンを殴り倒している。また、巨人の長嶋茂雄監督を、乱闘の最中に殴ったこともある。生前本人はこれについて「覚えていない」と述べていたが、プロ野球史上最大のスターと言われる長嶋茂雄を試合中に殴ったのは、後にも先にも大杉のみである。
- 中日ドラゴンズ戦で星野仙一から死球を食らった際、マウンドに歩み寄り「星野、わざとぶつけたな!」と詰め寄った。大杉・星野ともに気性の激しい選手であったため、両軍とも大乱闘を覚悟していたが、星野は「大杉さん、同じ岡山の先輩にわざとぶつけるわけないじゃないですか」と返し、それを聞いた大杉は「それもそうだな」と言って1塁に歩いていき、結局乱闘に発展することはなかった。
- 広島東洋カープ戦では、打席に入ったところ、捕手の達川光男がマウンドに向かって「こいつは石ころだ」と叫んだ。コントロールの定まらないピッチャーの津田恒美を「球界の大先輩だからといって遠慮せず、思い切り投げろ」と叱咤する意味での発言だったのだが、これを聞いた大杉は激怒し、直後に津田から特大ホームランを放った。そしてダイヤモンドを1周してホームベースを踏むなり、「石ころだと?ふざけるなっ!!」と達川の頭を思いきり叩いている(達川の項目も参照)。
- 野村克也のささやき戦術が通じなかった選手の一人である。野村が何かを囁きかけようとした瞬間「うるさい」と一喝し、二の句を継がせなかったという。
- 無類の肉好きであり、結婚後も必ず肉料理を作らせていた。しかし夫人は、プロ野球選手の健康管理という面からそれを好ましく思わず、ある日肉抜きの料理を食卓に出した。それを見て怒った大杉は、翌日、怒りに任せて特大ホームランを放ったという(試合翌日のスポーツ新聞より)。
- 1978年の日本シリーズ第7戦、6回裏に足立光宏からレフトポール際にホームランを放った。が、この判定を巡って阪急の上田利治監督が猛抗議。実に、1時間19分も試合が中断するも、結局判定は覆らず、正式にホームランと認められる。そして次の打席、今度は山田久志から左中間スタンドに向かって“文句なし”のホームランを叩き込んで試合を決定づけ、シリーズのMVPを獲得した。
- 足が遅く、守備も決して得手な方ではなかったため、当時のヤクルト監督・広岡達朗による選手としての大杉評は、決して高いものではなかった。が、大杉は広岡のことを「球界のサムライ」と高く評価し、師として慕っている様子も見られた。
- 1983年に「原因不明の不整脈が悪化した」として現役を引退したが、自著によれば、本人には引退の意思は全くなく、医師からも野球を十分続けられるという診断を下されていたという。その真相は、武上四郎監督との確執が原因で、フロント主導により一方的に退団が決められてしまった、とのことである。この時、松園尚巳オーナーからは巨人への移籍を勧められたが、新監督に就任したばかりの王貞治に迷惑がかかると移籍を固辞、引退を決意したという。
- 引退試合の挨拶で「最後に、わがまま気ままなお願いではございますが、あと1本に迫っておりました両リーグ200本塁打、あと1本を皆様の夢の中で打たせて頂きますれば、これに優る喜びはございません」という言葉を残し、ファンの涙を誘った。また引退会見の席では「さりし夢 神宮の杜に かすみ草」という句を詠んでいる。
- 自らを「かすみ草」になぞらえたのは、通算1500打点を達成した試合後のインタビューで、野村克也の「ON(王貞治・長嶋茂雄)がひまわりなら、自分は日本海にひっそりと咲く月見草」という言葉を引き合いに出し、「ONがひまわり、野村さんが月見草。まあハリさん(張本勲)も月見草で、さしずめ自分は神宮に咲いたかすみ草だ」と語ったことに由来する。余談だが、後年著書でこの時のインタビューについて「ハリさんはどちらかといえば『雑草』だが、それではさすがに失礼なので月見草にした」と述べている。
- 犠牲フライのシーズン記録保持者である。(15本、1970年)
- スワローズ初の日本一に貢献、前人未踏の両リーグ1000本安打、球団初の2000本安打の快挙に、背番号8はヤクルトの永久欠番に制定された。が、大杉本人の意志で、1985年に入団してきた広澤克実に背番号8が与えられている。
- 引退後は、タレントとしても活躍。和田アキ子や萩本欽一も番組を通じて大杉ファンとなってしまう。特に萩本はその人間性に魅了され自身がプロデュースする番組の中で「大杉の話を聞くだけ」のコーナーを設けている。大杉没後に萩本は何度もこの稀有な才能が喪われた事を惜しんだとされる。
- 1987年、「とんねるずのみなさんのおかげです」で、とんねるず対大杉・土橋正幸(ともに当時フジテレビ解説者)という野球大会が行なわれた。この試合で大杉が放ったサヨナラホームラン(引退後1号 通産400号)は、まさに「神宮の夜空の月に向かって飛んでいった」打球で、打たれた石橋貴明はうなだれてぐうの音も出なくなっていた。
- 1992年の逝去当日のプロ野球ニュースにおいては、司会の中井美穂と解説者の大矢明彦(ヤクルト時代の後輩であり、解説者としても特に親交が深かった)が、本番中にも関わらず号泣していた。
[編集] 著作
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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