伊福吉部徳足比売
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伊福吉部徳足比売(いふきべとこたりひめ または いふくべとこたりひめ 生年不詳-708年(和銅元)7月1日)は、飛鳥時代の因幡国の豪族・伊福吉部氏の娘。
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[編集] 略歴
- 因幡国の豪族である伊福吉部氏の娘として生まれた伊福吉部徳足比売は、藤原京にあった文武天皇に采女として仕えた。707年(慶雲4)には地方豪族としてはまれな従七位下の位を授けられている。しかしその後、徳足比売は病を得て、故郷因幡国に帰ることなく708年(和銅元)7月1日に大和国で没した。
- 徳足比売の遺体は、3年間のもがり(仮埋葬)の後、710年(和銅3)10月に当時流行し始めていた火葬にされた。遺骨は彼女の故郷因幡国に送られ、同年11月13日に彼女の生まれ育った鳥取平野を見下ろす稲葉山の中腹に葬られた。
- 伊福吉部徳足比売は後述する墓誌からも明らかなように実在の人物である。しかし伊福部氏に伝わる系図『因幡国伊福部臣古志』(784年(延暦3)より記載)には、彼女の名前は記されていない。
- 伊福部氏は因幡一の宮である宇倍神社の司祭を長く務めた。作曲家・伊福部昭はその子孫である。
[編集] 伊福吉部徳足比売骨蔵器
- 時代は下って江戸時代の1774年(安永3)、因幡国法美郡稲葉郷宮下村(現・鳥取県鳥取市国府町宮ノ下)にある無量光寺の裏山である宇部野山(現・稲葉山)の中腹から、石櫃に納められた骨蔵器が発見された。石櫃は140㎝×86㎝・厚さ47㎝の2枚の凝灰岩で作られ、蓋石と台石から成っていた。蓋石の中央には穴が作られて骨蔵器が納められていた。
- 骨蔵器は鋳銅製の合わせ蓋式の容器で、高さ16.5㎝・蓋の直径26.4㎝あった。骨蔵器の中には、青灰色の灰のようなものがあったと伝えられている。蓋の表面には銘文が16行にわたる108文字の漢文で放射状に刻まれていた。前項で記した伊福吉部徳足比売の生涯と葬送の経緯は、この銘文(墓誌)から明らかになったものである。
- 現在、伊福吉部徳足比売の墓跡は国の史跡に指定されている。また骨蔵器は国の代表的逸品として重要文化財に指定され、現在は東京国立博物館に保管されている。いずれも地方の女性の葬送儀礼を知る上でたいへん貴重な資料である。また骨蔵器の蓋に刻まれた墓誌は、因幡国で発見されている最古の文字である。
[編集] 周辺の遺跡
- 国府町は早くから開けた地域で、因幡国府が置かれた。伊福吉部徳足比売墓跡の周辺にも重要な遺跡が多い。
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- 宇倍神社:武内宿禰を祀る因幡一の宮。
- 亀金丘古墳:宇部神社境内にある直径14mの円墳。
- 新井の石舟:二位の尼の墓と伝えられる石室。
- 梶山古墳:古墳時代終末期の古墳で、1978年に中国地方で最初の彩色壁画が発見された。精巧な切石で作られ、方形壇をもつ変型八角形墳。
- 岡益の石堂:この地に伝わる平家伝説にまつわる安徳天皇御陵参考地。建立年代や建立目的が不明な謎を秘めた遺跡で、エンタシスの石柱などが残る。
- 因幡国庁跡:天平宝字3年(759年)正月に、因幡国司の大伴家持により万葉集の最後を飾る『新しき年の始の初春の 今日降る雪のいや重け吉事』が詠まれた。
- 志賀直哉来訪記念碑:1955年(昭和30)に文豪・志賀直哉が長通寺を訪れ、岡益の石堂や因幡三山の景色を絶賛し、その感想を『妙』の一字として揮毫した。長通寺の境内に、この時の来訪記念碑がある。
[編集] 外部リンク
- 鳥取県鳥取市国府町にある天平時代の因幡地方の歴史をテーマにした歴史博物館。伊福吉部徳足比売骨蔵器のレプリカや国府町周辺の歴史民族資料が数多く展示されている。