伊福部昭
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伊福部 昭(いふくべ あきら、1914年5月31日 - 2006年2月8日)は、日本を代表する作曲家。ほぼ独学で作曲家となった。日本の音楽らしさを追求した民族主義的な力強さが特徴の数多くのオーケストラ曲のほか、『ゴジラ』を初めとする映画音楽の作曲家として、また音楽教育者として知られる。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] デビュー以前
1914年、北海道釧路町(現釧路市)幣舞警察官僚の伊福部利三、キワの三男としてうまれる。伊福部家は因幡の古代豪族を先祖とする。本籍地は鳥取県岩美郡国府町(現鳥取市)。昭の代で67代目。
父・利三は警察署長や音更村(現音更町)村長を務めた。放送作家の伊福部崇とは親戚関係にある。工学博士で北海道大電子研究所教授や東京大先端研教授を歴任した伊福部達は甥(長兄宗夫の次男)。
札幌第二中学(現北海道札幌西高等学校)を経て、1935年に北海道帝国大学(現北海道大学)農学部林学実科卒業。
幼少期、父親が村長だったためアイヌの集落へ出入りしていたのに付いて行き、そこでアイヌの舞踊、アイヌ音楽、またムックリやトンコリなどの民族楽器に触れ、大和民族とは異なる文化と音楽に興味を持つ。また、当時はSPだったレコードで現代音楽に多く触れ、ヴァイオリンを習得し、大学時代は学生オーケストラのコンサートマスターを務めた。
札幌第二中学校の頃、友人の三浦淳史(後に音楽評論家となる)に「音楽をやるなら作曲をやらねば意味がない」と「そそのかされて(本人談)」、海外から入手した楽譜とレコードをもとに独学で作曲の勉強を始めた。ストラヴィンスキーの『春の祭典』に触発され、オーケストラ作品の作曲法も学んでいく。
歌曲『平安朝の秋に寄せる三つの歌』、ギター曲『JIN』『ノクチュルヌ』(楽譜は共に行方不明)を作曲した後、1933年に三浦が文通していたスペイン在住の米国人ピアニスト、ジョージ・コープランドのために『ピアノ組曲』を書き上げる。これは、コープランドの「地球の反対側にいながら私の音楽を聴くのだから、作曲もやるのだろう。曲を送れ」という旨の手紙に対して、三浦が「良い作曲家がいるので曲を送る」と返事を書いたことを受けて作曲したものであるが、後年、管弦楽版、筝曲版、弦楽オーケストラ版などを編曲するなど、ライフワーク的な作品となる。なお、コープランドからは「面白いのでぜひ演奏したい」という返信があったが、スペイン内戦のため手紙が途絶えたという。
この時期、後に作曲家となる早坂文雄と知り合う。三浦、早坂らと「新音楽連盟」を結成し、当時の最先端の現代音楽作品を演奏していく傍ら、作曲法を習得していき、伝統的な日本の音楽に根ざした作品造りに取り組んだ。
[編集] デビュー作・日本狂詩曲
大学を卒業した1935年、アメリカの指揮者フェビアン・セヴィツキー(クーセヴィツキーの甥)の依頼により『日本狂詩曲』(当初全3楽章)を作曲し、ボストンへ送る。同年、パリでアレクサンドル・チェレプニン賞が催されると、審査員の中にモーリス・ラヴェルの名を見つけ、ラヴェルに見てもらいたいという一心で、『日本狂詩曲』を賞の規定に合わせ第1楽章「じょんがら舞曲」をカットして応募する。結局ラヴェルは病気のため審査員を降りたが、チェレプニンを初めジャック・イベールやアルベール・ルーセルといったフランス近代音楽を代表する作曲家たちが審査にあたった。このコンクールは日本人に対して開かれたコンクールだが、審査会場はパリであった。パリへ楽譜を送る際、東京からまとめて送る規定になっていたため伊福部の楽譜も東京へ届けられたが、東京の音楽関係者はその楽譜を見て、
- 平行五度などの西洋音楽の和声の規則を無視し、その場の日本人にとって下衆に見えた日本の伝統音楽のような節回しが多いこと
- 当時としては極端な大編成である編入楽器多数の三管編成オーケストラが要求されていたこと
- 北海道の厚岸町から応募してきたこと
との理由から、相当の驚きと困惑があったと言う。とくに1.の理由により正統的な西洋音楽を学んできた日本の中央楽壇にとって恥だから、伊福部の曲を応募からはずしてしまおうという意見も出たが、審査をするのは東京の我々(その場にいた日本人)ではなくパリの面々だし、応募規程を満たしているのに審査をはずす理由もなく、せっかく応募してきたのだからという理由で伊福部の曲も無事パリの審査会場へ届けられた。結果伊福部が第1位に入賞し、世界的評価を得る(この時の第2位は、伊福部と同じくほぼ独学で作曲を学んだ松平頼則であった。後に松平とは新作曲派協会を結成することになる。)。同曲は翌年、セヴィツキー指揮、ボストン・ピープルス交響楽団によりアメリカで初演され、好評を得た。なお初演の際、チェレプニン賞への応募に合わせて第1楽章はカットして演奏され、永遠に幻となった。 なお、この幻の日本狂詩曲第一楽章「じょんがら舞曲」は、日本狂詩曲のスコア浄書を手伝った、次兄・勲の追悼のために書かれた交響譚詩の第二譚詩(第二楽章)にその一部が組み込まれている。
これを機に初演の年来日したチェレプニンに短期間師事する。日本狂詩曲は大編成の大作だが、何度も演奏されやすいよう編成を考えて書くべきというチェレプニンの意見に従い、次作として14人編成で全員ソロの小管弦楽曲『土俗的三連画』を書いた。またそれ以前に書いた『ピアノ組曲』が1938年にヴェネチア国際現代音楽祭入選。この時期は日本の民族音楽の他、アイヌやギリヤーク(ニヴフ)といった北海道や樺太の少数民族の文化に発想を求めた作品が多い。
[編集] 戦前
1935年から厚岸森林事務所に林務官として勤務し、アツケシザクラを発見した。1940年に林務官を辞め北海道帝国大学の演習林事務所に勤務。1942年に兄・勲が、東京・羽田で戦時科学研究の放射線障害により死去。翌年、勲に捧げる曲として『交響譚詩』を作曲。同曲はビクターの作曲コンクールに入賞し、伊福部の作品として初めてレコード化されることとなった。1945年には、帝室林野局林業試験場に兄と同じく戦時科学研究員として勤務。放射線による木材強化の研究に携わるが、当時は防護服も用意されず、無防備のまま実験を続け、放射線障害を負うことになった。日本の敗戦と同時に病に倒れ、職を続けられなくなり、そこで音楽を本職とすることを決意し上京した。
戦時中は行進曲など軍隊のための音楽(『古典風軍樂「吉志舞」』『兵士の序楽』)や、政府の宣伝のための音楽(『フィリッピン國民に贈る管絃樂序曲』『管絃楽のための音詩「寒帯林」』)も作曲したが、本人の意思とは関係なく書かざるを得ない状況だったと後に伊福部自身は述べている。これらのうちのいくつかは、後の映画音楽などに転用された。
[編集] 戦後
上京後は1946年から1953年まで東京音楽学校(現東京藝術大学)作曲科講師を勤め、初めて担当した芥川也寸志、黛敏郎などから大変慕われた。特に前者の芥川は初日の授業の後で伊福部に付いて行き家まで上がりこんだという逸話を持つ。そのほかにも教育者として松村禎三、矢代秋雄、池野成、小杉太一郎、石井眞木、三木稔、和田薫など多くの作曲家を育てた。
その傍ら、東宝の映画音楽の作曲にも携わった。初めて音楽を担当した1947年の『銀嶺の果て』では、一見明るい場面に物悲しい音楽を付けるという音楽観の違いから監督の谷口千吉と対立した。その日の録音を取りやめ、演奏者に帰ってもらった後、数時間議論を続けたという。このとき仲裁をしたのが脚本の黒澤明であった。黒澤の仲裁もあって曲はそのまま採用されたが、断片的な場面ごとではなく作品全体を見渡した結果としての主人公の心情を表した音楽を意図した事が認められ、最終的には音楽への真摯な態度が製作側からも評価された。
後に『ゴジラ』のテーマ曲をはじめ、『ビルマの竪琴』や『座頭市』シリーズなど多くの映画音楽をてがけた。特にゴジラでは、なかなか決まらず難儀していたゴジラの鳴き声の表現に、コントラバスのアルコ・スル・ポンティチェロという軋んだ奏法の音を使用することを発案したり(最終的に音響技師の三縄一郎が、テープを逆回転させるなどし、完成させる)、劇中での秘密兵器オキシジェン・デストロイヤーを水槽内で実験するシーンでは、弦楽器がグリッサンドしながら高音の軋んだトレモロを奏でた後でピアノの低音部がトーン・クラスターを奏する等、映画の公開された1954年にはまだ現代音楽界でも認知されていなかった手法を大胆に用いたことは、世界的にも特筆に価する。
一方そのような映画音楽内での実験的な音響とは別に、演奏会用純音楽では調性と乖離する世界の現代音楽の動向とは距離を置き、『シンフォニア・タプカーラ』などの代表作をこの時期生み出しながら、オスティナートを基本とする自己の作風を貫き通した。そのために戦後の一時期は退嬰的との不遇な評価に置かれるが、『ピアノと管絃楽のためのリトミカ・オスティナータ』などに代表されるその反復語法ゆえにミニマルミュージックの開拓者の一人であるテリー・ライリーが表敬訪問するなど、前衛の停滞以降は再評価が進んだ。特に1980年代以後、伊福部が音楽を担当したゴジラなどの怪獣映画シリーズを子供時代に見て育った世代が音楽学者となり、片山杜秀やゲルニカの指導者であった上野耕路らも積極的に伊福部を推した。
1974年東京音楽大学教授就任、1976年同大学長、1987年同大民族音楽研究所所長を経て、同大名誉教授。晩年は東京都世田谷区に居住した。
1950年代の一時期には、東宝に所属している俳優陣に対し、音楽の講義も行っている。この時の教え子に宝田明や岡田真澄などがおり、宝田はその後も伊福部を慕っていることを、映画の打ち上げ会や書籍などで語っている。
管弦楽曲、バレエ音楽、歌曲、室内・器楽曲など数多くを作曲した。主な著作に『管絃楽法』、『音楽入門』などがある。特に『管絃楽法』は上下巻1500ページ強にもおよび、半世紀を経た今でも日本の作曲教育の名教科書として使用されている(ただし2001年より現在絶版)。
[編集] 晩年
晩年は旧作の改版も多く手がけ、デビュー作の『ピアノ組曲』に77歳になってオーケストレーションを施した『日本組曲』をはじめ、年を重ねてからも大作を書く筆は衰えなかった。この時期の改作としては、弟子の三木稔が開発に携わった二十絃筝や二十五絃筝など筝の改良楽器およびその合奏のための作品が多い。1997年にそれまで戦時中失われたとされていた『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』の楽譜がNHKの資料倉庫から発見されるなど、晩年になってから多数の初期作品が蘇演される幸運にも恵まれた。
2003年頃から体調を崩し始め、2006年1月19日に腸閉塞のため入院。2006年2月8日、多臓器不全のため東京都目黒区の病院で死去。享年91。葬儀委員長は松村禎三(東京芸術大名誉教授)。
遺作は結果として、2004年初演の二十五絃箏甲乙奏合『ヨカナーンの首級を得て、乱れるサロメ ― バレエ・サロメに依る』である。 しかし、『土俗的三連画』のピアノリダクション版、並びに野坂恵子に献呈する予定だった二十五絃筝曲『ラプソディア・シャアンルルー』は、病床において構想の段階を過ぎて、書き始める直前であったと言う。
1980年、紫綬褒章。1987年、勲三等瑞宝章。1996年、日本文化デザイン大賞。2003年、文化功労者。2006年、第48回日本レコード大賞特別功労賞。2007年、第30回日本アカデミー賞会長特別賞。
[編集] 人柄
- 「芸術はその民族の特殊性を通過して共通の人間性に到達しなくてはならない」を信条とし、「大楽必易 大礼必簡」(「すぐれた音楽は平易なもので、すぐれた礼節は簡略なものである」という意の司馬遷の言葉)を座右の銘としていた。また、伊福部家の家学は老子であり、これをはじめとして多くの中国古典に精通していた。
- 政治的スタンスについては、民族主義を標榜する点から右翼的と、逆に戦後反戦映画を多く手がけた点から左翼的と思われることがあったようだが、自ら明言することは無かった。2005年には、音楽家有志によって結成された「音楽・九条の会」の呼びかけ人として参加している。
- 自身は神道を信仰していたが、神道やそれ以外も含め宗教映画も多く手がけた(『日本誕生』、『釈迦』、『人間革命』等)。『続・人間革命』は降板させられたが、これは天理教の映画『扉はひらかれた』に参加したためだといわれている。自身は「八百万の神ということで誰をやってもいいんです」と語っている。
- タバコ(銘柄はダンヒル・インターナショナル)をこよなく愛するヘビースモーカーで、インタビューの写真・映像では、大体片手にタバコを持っている。また若いころはかなりの酒豪だったが、それでも北海道の森林官のレベルで見ると強いとは言えないそうである。チョコレートなどの甘いものが好物で、仕事の際には机の引き出しに入れ、よく食べていたという。
[編集] エピソード
- 伊福部の映画音楽デビュー作『銀嶺の果て』は、監督の谷口千吉にとっても、また主演の三船敏郎にとってもデビュー作であった。その『銀嶺の果て』の打ち上げの席で、伊福部は小杉義男に監督と論争したことを咎められた。しかし小杉が伊福部から離れたあと、志村喬がやってきて、「音楽の入れ方で監督と論争する人は初めてだ。これからも大いに頑張りなさい」と励まされた。
- 映画の仕事で行った京都で月形龍之介と酒を飲んでいると、途中から入ってきた男がいた。月形にたかりにきたその男は、名前も名乗らぬままタダ酒に酔いつつ俳優や映画会社への愚痴をこぼした。伊福部はその男と気が合い、その後もお互いの名前も分からないままたびたび会っては酒を飲んでいた。この男こそ特撮監督の円谷英二で、映画『ゴジラ』の製作発表の現場でバッタリ再会し、2人とも大変驚き、またお互いに初めて相手の名前を知ったという。
- 『座頭市』シリーズなどで仕事を共にした勝新太郎とは、「勝っちゃん」「先生」と呼び合う仲で、後に勝が舞台で座頭市を行う際、オープニングは伊福部のボレロ(座頭市のテーマ曲で伊福部はボレロのリズムを一貫して使用している)でなければならない、と言うことで、伊福部に音楽を依頼したと言う。
[編集] 誕生日とラヴェルの逸話
伊福部昭の誕生日は5月31日であるが、戸籍上は3月5日となっている。これは、父親が、少しでも早く学校に入れたいということで、3月5日の早生まれとして届けたからと伝えられている。
それとは別に3月7日が誕生日という説も広まっているが、これは冗談が定着してしまったものである。アメリカ・ボストンで『日本狂想曲』の初演をする時、主催者に生年月日を提出することになった。その時、友人の三浦淳史が「3月5日だって作った誕生日なのだから、いっそラヴェルと同じ3月7日と書いてしまえ」と勧め、モーリス・ラヴェルのファンであった伊福部昭はその通りに書いて提出した、というものである。
そのためか『ゴジラ』のテーマは、ラヴェルの『ピアノ協奏曲 ト長調』の第3楽章のある部分のメロディと似ている部分がある。もともとゴジラのテーマは『ヴァイオリンと管絃楽のための協奏風狂詩曲(ヴァイオリン協奏曲第1番)』の管弦楽トゥッティ部分からの転用であり、この曲におけるリズム細胞の構築の仕方がラヴェルのピアノ協奏曲に良く似ている。
伊福部とラヴェルの出会いは、学生時代にある邸宅で催されたレコード・コンサートを三浦淳史と共に聞きに行ったことに始まる。伊福部は最後の演目にあったベートーヴェンのヴァイオリンソナタ『春』を楽しみにしていたが、その直前にラヴェルの『ボレロ』が予定されていた。ボレロの初演からわずか数年後のことであり、もちろんモノラルのSPレコードである。作曲者の名前すら知らなかった伊福部はその演目表を見て訝しんでいたが、実際に聴いてみてその執拗な反復が持つあまりの迫力に圧倒され、ベートーヴェンは聞かずに会場を出た、と後に語っている。この反復体験が伊福部のオスティナート語法に決定的な影響を与えたことは想像に難くない。
[編集] 作品の特徴
- シンプルなモティーフの反復・展開
- これはアイヌなどの先住民族の音楽に影響されたもの。旋律はメリスマ(日本音楽でいう『こぶし』)と呼ばれる豊かな装飾を受ける。
- 民族的旋法の使用
- 三和音の否定
- リズムの重視
- 伊福部は、西洋音楽はリズムを無視した結果袋小路に陥った、としてリズムの復権を主張した。そこから、次のオスティナートの使用へと繋がっていく。
- オスティナートの重視
- 師匠のチェレプニンからは、「現代音楽のアキレス・ポイント」であるから避けるように、と指示されたが、伊福部はオスティナートこそアジアの音楽で重要な書法だ、と位置づけて創作に取り入れた。
- 伊福部は、アイヌ音楽について解説した文の中で、『反復すること其れ自体に重要な意味がある』と述べている(「音楽芸術」1959年12月号『アイヌ族の音楽』より)。
- ソナタ形式の否定
- これは、日本的美意識に照らし、機械的な主題再現を嫌ったためで、実際に伊福部の曲には主題提示→展開→発展的終結、という構成のものがほとんどである。
- 充実したオーケストレーション
- 『日本狂詩曲』以降晩年まで変わることのなかった充実したオーケストレーション技法は名著『管絃楽法』に凝縮されている。
[編集] 主要楽曲一覧
[編集] 管弦楽曲
- 日本狂詩曲 (1935年、ピアノ独奏版あり)
- 土俗的三連画 (1937年、14人の独奏者からなる室内オーケストラのための曲)
- 交響舞曲「越天楽」 (1940年)
- ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲 (1941年)
- 交響譚詩 (1943年)
- フィリピンに贈る祝典序曲 (1944年、2台のピアノとオーケストラのための曲、初演時のタイトルは『フィリッピン國民に贈る管絃樂序曲』)
- 兵士の序楽 (1944年)
- 管絃楽のための音詩「寒帯林」 (1944年)
- ヴァイオリンと管絃楽のための協奏風狂詩曲(ヴァイオリン協奏曲第1番) (1948年 / 1951年 / 1971年、ヴァイオリン+ピアノ版あり)
- シンフォニア・タプカーラ (1954年 / 1979年)
- ピアノと管絃楽のためのリトミカ・オスティナータ (1961年、2台ピアノ版あり)
- オーケストラとマリムバのためのラウダ・コンチェルタータ (1976年)
- ヴァイオリン協奏曲第2番 (1978年、ヴァイオリン+ピアノ版あり)
- 二十絃箏とオーケストラのための交響的エグログ (1982年)
- SF交響ファンタジー第1番~第3番 (各1983年)
- 倭太鼓とオーケストラのためのロンド・イン・ブーレスク (1983年)
- 日本の太鼓「ジャコモコ・ジャンコ」 (1984年、1951年のバレエ『日本の太鼓「ジャコモコ・ジャンコ」』のための音楽を演奏会用に改作)
- 舞踊曲「サロメ」 (1987年、1948年のバレエ『サロメ』用音楽を演奏会用に改作)
- 交響頌偈(じゅげ)「釈迦」 (1989年)
- 管絃楽司伴「鞆の音」 (1990年)
- 管絃楽のための「日本組曲」 (1991年、1933年の『ピアノ組曲』の管絃楽編曲)
- 交響ファンタジー「ゴジラvsキングギドラ」 (1991年)
- 交響的音画「釧路湿原」 (1993年、NHK制作の映像付き交響詩)
- 交響組曲「わんぱく王子の大蛇(おろち)退治」 (2003年、1963年東映アニメ映画のための音楽を演奏会用に纏める)
[編集] 吹奏楽曲
- 古典風軍樂「吉志舞(きしまい)」 (1943年)
- ブーレスク風ロンド (1972年)
[編集] 器楽曲
- ピアノ組曲 (1933年)
- 古代日本旋法による蹈歌(とうか) (1967年、ギター曲、二十絃箏でも演奏可)
- 箜篌歌(くごか) (1967年、ギター曲、ハープ版・二十五絃箏版あり)
- ギターのためのトッカータ (1970年、二十五絃箏版あり)
- 郢曲「鬢多々良」(えいきょく・びんたたら) (1973年、和楽器合奏曲)
- 物云舞(ものいうまい) (1979年、二十絃箏曲)
- バロック・リュートのためのファンタジア (1980年、二十五絃箏版あり)
- ヴァイオリンとピアノのためのソナタ (1985年)
- 胡哦(こが) (1997年、二十五絃箏曲)
- 琵琶行(びわこう) (1999年、二十五絃箏曲)
[編集] 歌曲
- ギリヤーク族の古き吟誦歌 (1946年)
- サハリン島先住民の三つの揺籃歌 (1949年、初演時のタイトルは『サハリン島土蛮の三つの揺籃歌』)
- アイヌの叙事詩による対話体牧歌 (1956年)
- 合唱頌詩「オホーツクの海」 (1956年、4人編成版あり)
[編集] 舞台芸術のための音楽
- バレエ音楽「イゴザイダー」 (1947年)
- バレエ音楽「さまよえる群像」 (1948年)
- バレエ音楽「サロメ」 (1948年)
- バレエ音楽「憑かれたる城(バスカーナ)」 (1949年)
- バレエ音楽「プロメテの火」 (1950年)
- バレエ音楽「日本の太鼓 ジャコモコ・ジャンコ」 (1951年)
- バレエ音楽「人間釈迦」 (1953年)
- 劇音楽「反逆児」 (1971年)
- バレエ音楽「日本二十六聖人」 (1972年)
[編集] 映画音楽
- ゴジラシリーズ
- ゴジラ (1954年)
- キングコング対ゴジラ (1962年)
- モスラ対ゴジラ (1964年)
- 三大怪獣 地球最大の決戦 (1964年)
- 怪獣大戦争 (1965年)
- 怪獣総進撃 (1968年)
- 地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン (1972年)
- メカゴジラの逆襲 (1975年)
- ゴジラvsキングギドラ (1991年)
- ゴジラvsモスラ (1992年)
- ゴジラvsメカゴジラ (1993年)
- ゴジラvsデストロイア (1995年)
- <以下、テーマ曲のみを使用>
- ゴジラvsビオランテ (1989年)
- ゴジラvsスペースゴジラ (1994年)
- ゴジラ2000 ミレニアム (1999年)
- ゴジラ×メガギラス G消滅作戦 (2000年)
- ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃 (2001年)
- ゴジラ FINAL WARS (2004年)
- ゴジラ以外の特撮映画
- その他の映画
- 銀嶺の果て (1947年)
- 静かなる決闘 (1949年)
- つばめを動かす人たち (1954年)
- ビルマの竪琴 (1956年)
- 真昼の暗黒 (1956年)
- 柳生武芸帳シリーズ (1957年)
- 十三人の刺客 (1963年)
- 徳川家康 (1965年)
- 親鸞 (1960年)
- 宮本武蔵 (東映版、1961年)
- 秦・始皇帝 (1962年)
- 忠臣蔵 花の巻・雪の巻 (東宝版、1962年)
- 婦系図 (1962年)
- 座頭市シリーズ
- わんぱく王子の大蛇退治 (1963年)
- 帝銀事件 死刑囚 (1964年)
- 超高層のあけぼの (1969年)
- サンダカン八番娼館 (1974年)
- お吟さま (1978年)
- 土俗の乱声 (1991年)
- 鉄人28号 白昼の残月 (2007年)
- ※当初の予定では2005年公開予定だった。流用に当たっては伊福部の了解を得たとの事。
他多数。
[編集] 関連書籍
[編集] 著作物・寄稿文
- 『音楽入門』(1951年:要書房)
- 『管絃楽法・上巻』(1953年:音楽之友社)
- 『管絃楽法・上巻補遺』(1968年:音楽之友社)
- 『管絃楽法・下巻』(1968年:音楽之友社)
- 『音楽入門』(1985年:現代文化振興会、1951年の同名書の復刊)
- 『音楽入門』(2003年:全音楽譜出版社、1951/1985年の同名書の復刊)
- 「プロコフィエフ」『芸術新潮』(1952年7月号)
- 「二千年前の舞踊」『芸術新潮』(1954年12月号)
- 「ロマン主義の否定、あるいはこれとの訣別」『音楽芸術』(1971年6月号)
[編集] 伊福部昭インタヴュー
- 伊福部昭:片山杜秀「伊福部昭、自身の創作理念について大いに語る」『音楽現代』(1999年10月号)
- 伊福部昭:小宮多美江「伊福部昭」 『作曲家との対話』(1982年)
- 伊福部昭:鹿島一彦「日本現代音楽の変容(3) 伊福部昭」 『音楽の世界』(1993年10月号)
- 伊福部昭:諸石幸生「民族の血に流れる音楽」 『音楽の友』(2003年7~9月号)
- 「家の履歴書」 『週刊文春』(通巻第1971号)
- 「伊福部昭」 『サライ』(2004年1/8号)
[編集] 伊福部昭についての書籍・寄稿文
- 木部与巴仁『伊福部昭・音楽家の誕生』(1997年)
- 木部与巴仁『伊福部昭・タプカーラの彼方へ』(2002年)
- 木部与巴仁『伊福部昭・時代を超えた音楽』(2004年)
- 小林淳(著):井上誠(共編)『伊福部昭の映画音楽』(1998年)
- 相良侑亮(編)『伊福部昭の宇宙』(1992年)
- 有馬礼子「私からみた伊福部先生の魅力」 『音楽現代』(1999年10月号)
- 上野耕路「"年の離れたちょっと不良っぽい友人でいたい"」 『音楽現代』(1999年10月号)
- 上野耕路「伊福部宇宙の領域」 『SOUND VOICE』(2001年2月号)
- 奥平一「新交響楽団と伊福部昭」 『音楽芸術』(1999年10月号)
- 柿沼敏江「伊福部音楽とアメリカ実験主義が出会うとき」 『音楽芸術』(1999年10月号)
- 片山杜秀「伊福部昭の主要作品年代順ガイド」 『音楽現代』(1999年10月号)
- 片山杜秀:河野保雄「伊福部昭の音楽」 『音楽現代』(2000年8~10月号)
- 神倉健:諸岡範澄「伊福部体験と音楽について言いたい放題」 『音楽現代』(1999年10月号)
- 木部与巴仁「伊福部昭のいる三つの風景」 『音楽芸術』(1999年10月号)
- 小宮多美江「研究・伊福部昭の音楽」 『文化評論』(1990年3月号)
- 実相寺昭雄「ゴジラという聖域」 『音楽現代』(1999年10月号)
- 高瀬まり子「昭和初期の民族主義的作曲様式-伊福部昭・清瀬保二・早坂文雄の音楽語法を中心として」 『音楽学』(通巻第20号)
- 富樫康「伊福部昭」 『日本の作曲家』(1956年)
- 松崎俊之「伊福部昭と〈日本的なるもの〉の帰趨 –問題としての日本近代音楽に対する一視座」 『芸術文化』(通巻第6号)
- 黛敏郎「伊福部昭先生‐その人と音楽」 『音楽芸術』(1995年10月号)
- 三浦淳史「伊福部昭とメフィスト」 『音楽芸術』(1957年5月号)
- 吉松隆「これが伊福部サウンドの魅力の秘密だ!!」 『音楽現代』(1999年10月号)
- 福田滋「日本の作曲家と吹奏楽の世界 伊福部昭“映像と交響の出会い”」 『バンドジャーナル』(2005年1月号)
[編集] 外部リンク
- 伊福部昭音楽祭(2007年3月4日開催予定)