梶山古墳
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梶山古墳(かじやまこふん)は鳥取県鳥取市国府町岡益にある古墳。1978年(昭和53)に中国地方で始めてとなる彩色壁画が発見されて注目され、1979年(昭和54)に国の史跡に指定された。その後の発掘調査で、日本最古の方形壇を持つ変型八角形古墳であることも確認された。
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[編集] 概要
- 梶山古墳の築造年代は6世紀末から7世紀初、古墳時代の後期(終末期)と推定される。
- 丘の南面を馬蹄形に堀りくぼめ、底部を25m四方ほどに整地している。墳丘部は対角長17m、一辺2.5~8.5mの変型八角形となっている。墳丘の前(南面)には方形壇(祭祀を行う広場)が築かれている。方形壇は長さ2m、幅14mあり、玄武岩の石垣で三段にわたって築かれている。
[編集] 石室と彩色壁画
- 石室は墳丘の南面にある。内部には凝灰岩を切石とした横穴式石室を構築している。石室の全長は9mほどで、玄室・前室・羨道の3部分からなり、玄室の高さは1.8mほどある。前室部の高さは2.1mほどで、石室の中では最も高い。
- 石室の奥壁にはベンガラで魚や同心円(日・月)、竜文、三角文を描いている。石室は早くから開口しており、子どもの遊び場となっていたが、1978年(昭和53)5月、梶山古墳を訪れた同志社大学教授・森浩一により、彩色壁画であることが確認された。後になって、石室奥壁の壁画のことを地元の小学生が作文に書いていたことも分かった。
- 壁画の主題である魚は体長53㎝で、鮭か鯉を描いたと見られる。鮭は死者がもう一度よみがえり、生前の姿を見せてほしいという追慕の気持ち、鯉は滝を登ると竜に変わる『竜文の鯉』という中国の故事に由来しており、いずれにしても死者を弔う祈りの印である。
[編集] 被葬者
- 被葬者については不明であるが、675年(天武4)に因幡に配流された皇族の麻積王(おみおう)であるとの説が有力である。
- 八角形の墳丘・壁画の魚・南面するプランなどは道教思想が濃厚であること、石室の切石の精巧な技術、壁画の技術などから大陸文化の影響が強くうかがえ、被葬者は相当に身分の高い人物であったことが想像される。
[編集] 遺跡の現状
- 古墳は発掘調査での発見に基づき、変型八角形の墳丘部や方形壇が復元されている。
- 石室は壁画保存のために扉が設けられており、観覧することはできないが、外部と石室内の気温差が少ない春か秋に、三日間ほど一般公開される。また、近くの因幡万葉歴史館には原寸大の石室レプリカが展示されている。
[編集] 周辺の遺跡
- 国府町は早くから開けた地域で、因幡国府が置かれた。梶山古墳周辺にも重要な遺跡が多い。
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- 宇倍神社:武内宿禰を祀る因幡一の宮。
- 亀金丘古墳:宇部神社境内にある直径14mの円墳。
- 新井の石舟:二位の尼の墓と伝えられる石室。
- 伊福吉部徳足比売墓跡:藤原京の文武天皇に仕えた伊福吉部徳足比売(いふきべとこたりひめ・いふくべとこたりひめ)の火葬墓跡。
- 岡益の石堂:この地に伝わる平家伝説にまつわる安徳天皇御陵参考地。建立年代や建立目的が不明な謎を秘めた遺跡で、エンタシスの石柱などが残る。
- 因幡国庁跡:天平宝字3年(759年)正月に、因幡国司の大伴家持により万葉集の最後を飾る『新しき年の始の初春の 今日降る雪のいや重け吉事』が詠まれた。
- 志賀直哉来訪記念碑:1955年(昭和30)に文豪・志賀直哉が長通寺を訪れ、岡益の石堂や因幡三山の景色を絶賛し、その感想を『妙』の一字として揮毫した。長通寺の境内に、この時の来訪記念碑がある。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 鳥取県鳥取市国府町にある天平時代の因幡地方の歴史をテーマにした歴史博物館。梶山古墳の石室レプリカや国府町周辺の歴史民族資料が数多く展示されている。