佐竹義つま
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佐竹 義諶(さたけ よしつま(よしみち)、天保8年(1837年)1月 - 明治3年4月16日(1870年5月16日))は、出羽秋田新田藩(岩崎藩)の第8代藩主。陸奥相馬中村藩主・相馬益胤の四男。通称は東直五郎、求馬。官位は従四位下壱岐守、播磨守。
天保8年(1837年)1月誕生。佐竹家側の記録によれば、はじめ義諶は中村藩士岡田智胤の養子となり、岡田泰胤を称したという。ただし、相馬家側の記録によれば、義諶(幸之助)は中村藩士熊川長基の養子となり、熊川長顕を称していたという。佐竹義諶を益胤の四男、岡田泰胤を益胤の五男、すなわち別人としている。
安政4年(1857年)9月16日、兄で岩崎藩7代藩主の佐竹義核(のち義堯と改名)が本家久保田藩の藩主となったため、その養嗣子として後を継いだ。慶応4年(1868年)3月出羽国川辺郡椿台に陣屋を構える。それまで秋田新田藩佐竹家は特定の領地を持っておらず、江戸屋敷で暮らしていた。戊辰戦争では、新政府軍として矢島口で庄内藩と戦って武功を挙げたため、賞賛された。明治2年(1869年)5月25日、養嗣子の佐竹義理に家督を譲って隠居した。明治3年(1870年)4月16日、死去した。享年34。墓所:東京都板橋区小豆沢三丁目の総泉寺。明治40年(1907年)9月5日、従四位を追贈された。
正室は熊川氏(秋田藩士・佐竹義茂の養女)。子は長男佐竹義脩(久保田藩主・佐竹義堯養子)ら三男一女あり。養子は佐竹義理。
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