佐竹義堯
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佐竹 義堯〈義核〉(さたけ よしたか〈よしざね〉、文政8年7月27日(1825年9月9日) - 1884年(明治17年)10月23日)は出羽国久保田藩第12代藩主、出羽国岩崎藩7代藩主。秋田藩知事。陸奥国相馬中村藩主・相馬益胤の三男。生母は池田氏。初名は相馬宗胤、佐竹義核、義就。通称は亀三郎、清三郎、左近。官位は従五位下左近将監、従四位下左中将・右京大夫、贈正二位。爵位は侯爵。
天保10年(1839年)元服し、相馬宗胤と名乗る。嘉永2年(1849年)2月26日秋田新田藩(岩崎藩)主佐竹義純の養子となる。それにともなって佐竹義核と改名した。同年10月26日養父・義純の隠居により、秋田新田藩佐竹家の家督を相続した。安政四年(1857年)7月1日、秋田藩主佐竹義睦が病死し、同年7月20日義核は末期養子として秋田藩佐竹家の家督を相続した。それに伴い、佐竹義就と改名。秋田新田藩佐竹家は弟・佐竹義諶(相馬益胤の四男)が相続した。同年12月16日、従四位下侍従・右京大夫に叙任した。文久2年(1862年)佐竹義堯と改名した。
安政六年(1859年)5月、秋田に入部。入部間もない7月1日、男鹿半島沖合にロシア汽船が現れ、領民を驚かした。当時は攘夷論がかまびすしい時期であったが、義堯はロシア船員の薪の求めを許してやった。藩内の情勢に目をやると、当時の秋田藩は財政事情が悪化しており、就封早々人事刷新を始めとする藩治の改革を行う。自ら範を垂れ質素倹約に励み、文武を奨励した。文久2年(1862年)4月に江戸に上る。文久3年(1863年)1月京都に上洛。
義堯の帰藩後、京都ではいよいよ攘夷論が盛んになり、朝廷から義堯に京都警備の要請が来る。一方幕府からも江戸城への登城を求められる。朝廷と幕府の要請の板挟みとなった義堯だが幕府の要請を断り、朝廷からの再びの要請があったため名代として戸村十太夫(義效)を文久三年8月に京都に派遣した。警衛の命は12月に解除された。翌元治元年(1864年)に京都警備のための財源として二万両の新札発行と三万五千石の用米調達に取りかかった。
慶応2年(1866年)6月より9月まで義堯は京都警衛の当番だったが、持病が回復せず名代として小野岡右衛門を警衛に当たらせた。8月に江戸を経由して上洛するために出発したが、江戸に着くとまもなく病状が悪化、そのまま江戸にとどまる。
翌慶応3年(1867年)、前年の凶作に苦しむ領民の救恤の為帰藩を願い出たが許可されず、その間に持病が再発する。江戸に逗留中王政復古の大号令がなされ、慶応4年(1868年)の1月に帰藩、重臣を集めた会議で上洛を決定。名代として再び小野岡右衛門を上洛させる。同年戊辰戦争が勃発すると会津討伐の仙台藩の応援として2月に奥羽鎮撫総督として大阪より海路仙台へ向かった。戊辰戦争は翌明治2年(1869年)終結、版籍奉還がなされると義堯は藩知事に任命される。明治4年(1871年)の廃藩置県後は東京に転居した。
明治5年8月2日隠居し、養嗣子佐竹義脩に家督を譲った。明治14年8月16日養子義脩を隠居させて、再び家督を相続した。明治17年7月7日侯爵となる。同年10月23日病気のために死去した。享年60。死後は浅草総泉寺に葬られた。明治41年(1908年)正二位を追贈される。佐竹侯爵家は次男・佐竹義生が継承している。
正室は佐竹義純の長女多喜(死別)、継室は藤堂高聴の娘(死別)、青山忠良の娘。子は佐竹義生(次男)、佐竹義脩正室、佐竹義理正室。
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