保科正光
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保科 正光(ほしな まさみつ、1561年(永禄4年) - 1631年10月31日(寛永8年10月7日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、信濃国高遠藩初代藩主である。武田氏家臣の保科正直の子、母は跡部氏の娘。官位は従五位下肥後守。正室は真田昌幸の娘。
父の正直は信濃国高遠城を領したが、武田氏滅亡後は徳川家康に従う。天正18年(1590年)の家康の関東入部に伴って下総国多胡に領地を与えられた。正光は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに従軍し、戦後に旧領に戻されて高遠藩を成立させる。慶長20年(1615年)の大坂の役にも参陣する。江戸幕府の2代将軍徳川秀忠の側室の子で、秘匿されて武田信玄の娘の見性院に預けられていた保科正之(幸松丸)を養子として迎え、その養育に当たる。元和6年(1620年)には先に養子としていた実弟の保科正貞(後の上総国飯野藩主)を廃して、正之に藩を継承させる。寛永8年(1631年)に死去、享年71。
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