保科正之
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保科正之(ほしな まさゆき、 慶長16年5月7日(1611年6月17日) - 寛文12年12月18日(1673年2月4日))江戸時代の大名。徳川幕府第2代将軍・秀忠の4男。幼名は幸松。徳川家康の孫。会津松平家初代。
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[編集] 経歴
[編集] 生い立ち
徳川二代将軍・秀忠を父にもつ。母は秀忠の乳母の侍女で北条氏浪人・神尾栄嘉(かんお さかよし)の娘・お静(お志津、のち・浄光院)。
秀忠は恐妻家で知られ正妻達子(母は織田信秀の娘・お市)の癇気を恐れたためか、お静の妊娠を知った秀忠は武田信玄の次女(穴山信君正室)の見性院に預けた。そこで生まれた子を秀忠は幸松と名付け、見性院に養育させた。この事実は秀忠側近の老中・土井利勝他数名のみしか知らぬ事であった。まさに「将軍様のご落胤」である。
[編集] 信濃時代
7歳の時、武田氏ゆかりの信濃国高遠藩主・保科正光が預かり、正光の子という名目で養育される。寛永6年(1629年)18歳にして初めて父・秀忠との面会が叶う。寛永8年(1631年)高遠藩3万石の藩主となり、正四位下・肥後守・左近衛中将を拝受。以後、通称・肥後守と称される。(養父正光は先に実弟の正貞を養子にしていたが、正之を嫡子としていた。)
[編集] 会津藩主
秀忠の死後、3代将軍・家光はこの謹直で有能な異母弟をことのほか可愛がった。
寛永13年(1636年)には出羽国山形藩20万石を拝領。村山郡白岩領主酒井忠重に対して起きた白岩一揆の関係者を捕縛し、処刑する。寛永20年(1643年)陸奥国会津藩23万石と大身の大名に引き立てられる(この際、正之の嘆願で保科正貞も大名(上総飯野藩)に取り立てられて保科氏を存続させた)。以後、会津松平家が幕末まで会津藩主を務めた。
慶安4年(1651年)家光は死に臨み、枕頭に正之を呼び寄せ「肥後よ宗家を頼みおく」 と残した。これに感銘した正之は寛文8年(1668年)『会津家訓十五箇条』を定めた。第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない。」と記し、以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守った。幕末の藩主・松平容保はこの遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として最後まで西軍(官軍)と戦った。
[編集] 晩年・その後
寛文9年(1669年)子の正経に家督を譲り隠居。
寛文12年、江戸三田の藩邸で死去。享年62(数え年)。生前より吉川惟足を師にト部家神道を学び、寛文6年(1666年)、領内の寺社を整理し、神仏習合を排斥しており、神式で葬られる。霊社号は土津(はにつ)霊神。生前に神として祀られる生祠建立の計画があったが、実行される前に没した。墓所は福島県耶麻郡猪苗代町見祢山にある。以後、二代・正経を除き会津藩主は神式で祀られている。延宝3年(1675年)墓所に隣接し、土津神社が建立され祭神として祀られた。
正之は幕府より松平姓を名乗ることを勧められたが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず生涯、保科姓を通した。
三代・正容になって漸く松平姓と葵の紋が使用され、親藩に列した。
[編集] 家族
- 実父:2代将軍徳川秀忠
- 実母:於静(「志津」とも。神尾栄嘉女。浄光院。)
- 養父:保科正光
- 正室:内藤政長の娘・菊姫
- 長男:幸松(夭逝)
- 継室:藤木弘之の娘・於万(かつては、正之の異母姉・東福門院に仕えていた)
- 側室:牛田氏
- 三女
- 四女:摩須(前田綱紀正室)
- 側室:沖氏
- 六男:松平正容
- 側室:沢井氏
なお、長女・媛姫は、上杉家に嫁したのち、実母・於万の方による、四女・摩須毒殺未遂事件にて、あやまって毒を飲んでしまって急死してしまった。 於万の方は、側室の産んだ摩須が自分の産んだ媛姫の嫁ぎ先より大藩の前田家に嫁ぐのが許せなくての事件だったらしい。事件後、媛姫は上杉家菩提所である林泉寺に葬られ、正之は於万の方を遠ざけ、のちの上杉家の綱勝急死の際の末期養子に関して援助している。会津家家訓の第四条において、婦女子についても記載されている。ちなみに摩須は無事に前田家に嫁した。
[編集] 政策
[編集] 幕政
家光の死後その遺命により、甥の四代将軍・家綱の補佐役として幕閣の重きをなし、文治政治を推し進めた。末期養子の禁を緩和し各藩のお家断絶を緩和。会津藩で既に実施していた先君への殉死の禁止を幕府の制度とした。大名証人制度の廃止を政策として打ち出した。玉川上水を開削し江戸市民の飲用水の安定供給に貢献した。
明暦3年(1657年)の明暦の大火後、焼け出された庶民を救済した。主要道の道幅を6間(10.9m)から9間(18.2m)に拡幅した。火除け空き地として上野に広小路を設置し、芝と浅草に新堀を開削、神田川の拡張などに取り組み、江戸の防災性を向上させた。また、焼け落ちた江戸城天守の再建について、天守は無用のものであり無駄な出費は避けるべきと主張。以後、江戸城天守台が天守を戴くことはなかった。
この時代の幕閣(正之のほか、酒井忠勝、松平信綱、阿部忠秋など)全般に言えることではあるが、幕政において400万両超の蓄財を背景にした散財とも言える福祉政策・災害救済対策・都市整備などにより、幕府は急速に財政難へと陥っていった。正之の死後、5代将軍となった綱吉により荻原重秀の登用など財政の再建策が講じられた。
[編集] 藩政
藩政にも力を注ぎ産業の振興、社倉法を創設し飢饉時の貧農・窮民の救済に当てた。藩士に殉死を禁じ、また朱子学を藩学として奨励。好学尚武の藩風を作り上げた。同時代の水戸藩主・徳川光圀、岡山藩主・池田光政と並び江戸初期の三名君と賞されている。
[編集] 正之と朱子学
正之は熱烈な朱子学の徒であり、それに基づく政治を行った。身分制度の固定化を確立し、幕藩体制の維持強化に努めた。山崎闇斎に強く影響を受け、神儒一致を唱えた。
また、熱烈な朱子学徒であったため、他の学問を弾圧した。岡山藩主・池田光政は陽明学者である熊沢蕃山を招聘していたが藩政への積極的な参画を避けた。加賀藩主・前田綱紀が朱子学以外の書物も収集していたことに苦言を呈していた。また、儒学者の山鹿素行は朱子学を批判したために赤穂藩に配流された。
[編集] 保科正之の登場する作品
[編集] 関連項目
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