刀狩
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刀狩(かたながり、刀狩り)とは、百姓身分の者の帯刀権を剥奪する兵農分離政策で、特に安土桃山時代の1588年(天正16年)に豊臣秀吉が刀狩令を出して大規模に推進した政策を指す(ただし、刀狩を最初に行なったのは柴田勝家である)。一般的には百姓身分の者の武器所有を禁止し、それらを没収して農村の武装解除を図った政策として知られている。
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[編集] 秀吉の刀狩
豊臣秀吉が発した刀狩令は次の3か条からなる。
- 百姓が刀や脇差、弓、槍、鉄砲などの武器を持つことを固く禁じる。よけいな武器をもって年貢を怠ったり、一揆をおこしたりして役人の言うことを聞かない者は罰する。
- 取り上げた武器は、今つくっている方広寺の大仏の釘や、鎹にする。そうすれば、百姓はあの世まで救われる。
- 百姓は農具だけを持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮せる。百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。ありがたく思って耕作に励め。
刀狩の展開では没収された武器類を方広寺大仏殿の材料とすることが喧伝された。中世社会では、信仰の形として刀を仏にささげる行為が一般化しており、鎌倉時代には執権北条泰時が鎌倉市中の僧侶の帯刀を禁じた際に、没収した刀を鎌倉大仏に寄進すると述べている。
また、多聞院英峻(興福寺僧侶)による『多聞院日記』などでは、政策の主目的が一揆(盟約による政治共同体)の防止であったと記されている。つまり、百姓身分の者が一揆を結成して政権に異議申し立てをする物理的実力たる惣村を武装解除し、一揆の結成そのものを抑止しようとしたというのである。当時の百姓身分の自治組織である惣村は、自検断権に基づき自ら司法権とその保証となる軍事警察力たる武力を持ち、膨大な武器を所有していた、また、相互に一揆の盟約を結んで団結して、領主の支配に対して大きな抵抗力を持つ存在ともなっていたのである。秀吉は1585年には先行して根来衆や雑賀衆から武器没収を行っており、また織田氏家臣の柴田勝家も越前国の一向一揆の鎮圧のために刀狩政策を行っている。
ただ、実際には、刀や脇差の上納と没収が名目上で展開されたのみで、祭祀に用いる武具や害獣駆除のための鉄砲などは所持を許可されるなど、刀狩の展開後も農村には大量の武器が存在したままだった。すなわち、秀吉の刀狩令によって惣村の完全なる武装解除が達成されたわけではない。また、刀狩の展開の多くは村請すなわち惣村の自検断権に基づいて実行されたケースが多い。
中世を通じて武器の所有は広く一般民衆にまで浸透しており、成人男性の帯刀は一般的であった。また、近隣間の些細なトラブルでさえ暴力によって解決される傾向にあった、そのため、秀吉は刀狩と並行して武器の使用による紛争の解決を全国的に禁止(喧嘩停止令)し、この施策は江戸幕府にも継承された。
以上のことから、秀吉の刀狩令は百姓身分の武装解除を目指したものではなく、百姓身分から帯刀権を奪い、武器使用を規制するという兵農分離を目的としたものであったとする学説が現在では有力である。
[編集] その後の刀狩の展開
後に江戸幕府が「文治政治」の導入に伴って、再び帯刀規制に乗り出す事になった(寛文8年、後天和3年に全国的に拡大)。しかしこれも身分表象としての二本差し帯刀の規制による象徴的なものに留まり、農村に蓄えられた膨大な武器を消滅させるには至らなかった。ただし、内戦状態が解消して安定状態がもたらされた江戸時代には、表向き禁止された百姓の一揆が結成され、それによる権益要求の示威活動(強訴)が行われても、一揆側で真に戦闘時に威力を発揮する鉄砲や弓矢といった飛び道具の持ち出しは自粛されるなど、一定の妥協が成立していた。
これらの農村の膨大な武器がほぼ完全に消滅するのは、大日本帝国が太平洋戦争においてポツダム宣言を受諾し無条件降伏した後の、連合国軍最高司令官総司令部の占領政策による。昭和21年(1946年)に銃砲等所持禁止令が施行され、民間人は狩猟用や射撃競技用以外の銃器類と、美術用以外の日本刀を所持することができなくなった。これにより100万もの刀剣が没収されたという。また、それを背景に、引き続き警察が没収により徹底させた。
[編集] 関連事項
[編集] 関連書籍
- 藤木久志『刀狩り 武器を封印した民衆』(岩波新書)、岩波書店、2005年 ISBN 4-00-430965-4 C0221
[編集] 外部リンク
- 豊臣秀吉刀狩令(早稲田大学図書館所蔵貴重資料)
- 生類憐れみの令とは?