加茂田組
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加茂田組(かもだぐみ)は、神戸市長田区に本拠を置いて1950年代中頃から1988年(昭和63年)まで活動した暴力団。三代目山口組の2次団体として結成され、後に一和会の2次団体となった。
[編集] 歴史
二代目山口組若衆・加茂田松太郎の実子・加茂田重政が、幹部を務めていた わさび会が1956年(昭和31年)に解散した後、三代目山口組組長・田岡一雄から盃を受け、加茂田会(かもだかい)として結成。後に加茂田組に改称した。
1960年(昭和35年)には大阪に進出、ミナミの愚連隊組織・明友会(会長・姜 昌興)を潰滅に追い込んだ明友会事件では襲撃部隊の中核を担った。この事件などで加茂田は11年の服役を余儀なくされたが、この間にも抗争を繰り返し「武闘派」として活躍。加茂田出獄後の1977年(昭和52年)には愛媛県松山市で地元組織・兵藤会(会長・兵藤卓也)との第2次松山抗争を戦い、加茂田は その年の11月に山口組若頭補佐に任命された。1980年(昭和55年)には北海道北見市で的屋の奥州金子一家小林二代目として活動していた花田 章(花田組組長)を舎弟として取り込むことにより、1969年(昭和44年)の柳川組解散以降 山口組不在となっていた北海道への再進出を実現させた。
1984年(昭和59年)6月、四代目山口組組長に若頭の竹中正久(竹中組組長)が選ばれると、これに反発して山口組から脱退。分裂組織・一和会(会長・山本 広)の結成に参画し、加茂田は最高幹部の副会長兼理事長に就任した。1985年(昭和60年)1月の竹中暗殺を契機に全面化した山一抗争においても、1986年(昭和61年)2月に兵庫県姫路市にある竹中の墓前で竹中組 柴田会組員を射殺するなど最前列で戦った。しかし、1987年(昭和62年)に加茂田が賭博事件で社会不在となると、離脱する者が相次いで構成員は激減。1988年(昭和63年)4月に傘下の二代目花田組組長・丹羽勝治が山口組 弘道会系組員に暗殺されると、それへの対応を巡って組は内部から崩壊。同年5月8日、加茂田は一和会から脱退して組を解散した。
その後、構成員の多くは山口組に帰参。最後の若頭・大嶋 巽は五代目山口組顧問・益田佳於率いる益田組で舎弟頭を務めた後、加茂田組解散から わずか4年後の1992年(平成4年)2月には一和会出身では初の山口組直参昇格者となった。
[編集] 最高幹部
- 組長・加茂田重政(一和会副会長兼理事長、元三代目山口組組長代行補佐)