井筒部屋
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西ノ海嘉治郎が明治時代に創設した井筒部屋は鹿児島出身力士を多く抱えた。
1944年9月、9代目の親方(元幕内星甲実義)が亡くなったときに、一時期双葉山道場に全員預けられたが、1947年に鶴ヶ嶺道芳が引退し10代目を襲名、部屋を再興した。関脇鶴ヶ嶺昭男をはじめ、何人もの幕内力士をそだて、中堅部屋としての地位を確かなものにした。しかし、1972年に10代目の親方が逝去した後、後継をめぐって一致点が見出せず、元幕内星甲が11代井筒を引継ぎ、のち13代目を襲名する鶴ヶ嶺はこのとき独立して、君ヶ浜部屋を創設した。当時2人いた幕内力士のうち、大雄辰實は井筒部屋にのこったが、錦洋幸治(後に改名して大峩悟)は君ヶ浜部屋に移籍した。その直後の1972年5月場所に二人の割が組まれてしまった。
しかし11代井筒の元幕内星甲は1974年4月に名跡を返上し陸奥部屋と改称した。名跡は一門外の北の富士に渡って、1974年7月の引退直後、北の富士が12代井筒として、明治来の系統とは別の井筒部屋(九重部屋の分家で、現在の八角部屋に相当)を新たに興した。北の富士はその後1977年の千代の山の九重親方の死去にともなって九重を継ぐことになり、井筒の名跡は鶴ヶ嶺に渡って、1978年に君ヶ浜部屋が名称変更する形で再び井筒の名称が本家に戻った。なお、13代の鶴ヶ嶺の妻が8代井筒の孫にあたる(参照)。
こうして明治来の系統に戻った井筒部屋は大関霧島一博や井筒3兄弟(鶴嶺山宝一、逆鉾昭廣、寺尾常史)ら多くの関取を輩出した。1994年の停年後は次男の逆鉾が親方を務めており、三男の寺尾は、分家独立して2004年に錣山部屋を創設した。
目次 |
[編集] 井筒親方
- 7代 西ノ海嘉治郎 (初代)(元横綱・鹿児島)※井筒部屋創設
- 8代 西ノ海嘉治郎 (2代)(元横綱・鹿児島)
- 9代 星甲實義(元前頭2・鹿児島)
- 10代 鶴ヶ嶺道芳(元前頭2・鹿児島)
- 11代 星甲昌男(元前頭4・千葉)
- 12代 北の富士勝昭(元横綱・北海道)
- 13代 鶴ヶ嶺昭男(元関脇・鹿児島)
- 14代 逆鉾伸重(元関脇・鹿児島)
[編集] 現役の関取経験力士
[編集] 横綱・大関
- 横綱
- 西ノ海嘉治郎 (2代)(25代・鹿児島)
- 西ノ海嘉治郎 (3代)(30代・鹿児島)
- 大関
[編集] 幕内
- 関脇
- 錦洋与三郎(鹿児島)
- 逆鉾昭廣(鹿児島)
- 鶴ヶ嶺昭男(鹿児島)
- 寺尾常史(鹿児島)
- 小結
- 陣岳隆(鹿児島)
- 平幕
[編集] 行司
- 30代式守伊之助(鹿児島)