南部利剛
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南部 利剛(なんぶ としひさ、文政10年12月28日(1828年2月13日) - 明治29年(1896年)10月30日)は、陸奥国盛岡藩の14代藩主。12代盛岡藩主南部利済の三男。母は楢山隆翼の娘。官位は正三位、美濃守。
生年は文政9年(1826年)とも。嘉永元年(1848年)、兄・南部利義の隠居により13代藩主に就任。慶応4年(1868年)、奥羽越列藩同盟の盟約に従って出兵し、官軍と戦うも敗れ降伏する。このため、明治新政府から隠居と領地召し上げを命じられたが、長男・南部利恭に陸奥国白石13万石に減転封が許された。また、家老・楢山佐渡(母方従兄弟)ら3人が切腹となった。
正室は徳川斉昭の娘。子は、長男・南部利恭(15代藩主)、次男・大隈英麿(大隈重信養子)、三男・南部信方(七戸藩4代藩主)、四男・南部慶麿、五男・南部剛護、十一男・南部利克(八戸藩11代当主)、娘(華頂宮博経親王妃)、娘(南部栄信正室)、娘(南部康直室のち南部康保に入籍)、娘(秋元興朝正室)、娘(南部剛隆室)、娘(松前修広継室のち鍋島直虎継室)など。
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