徳川斉昭
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徳川 斉昭(とくがわ なりあき、寛政12年3月11日(1800年4月4日) - 万延元年8月15日(1860年9月29日))は、江戸時代末期の大名、第9代水戸藩主。徳川治紀の3男。15代将軍・徳川慶喜の父。幼名は虎三郎、敬三郎。諡号は烈公、字は子信、号は景山、潜龍閣。本当はなりあきとは読まず、なりあきらと読むが、同時期に有名な島津斉彬がおり、混同を避けるために、なりあきと読まれる。神号は「押健男国之御楯命」(おしたけおくにのみたてのみこと)・「奈里安紀良之命」(なりあきらのみこと)など。官位は従三位権中納言だが、薨後、贈正一位贈大納言が贈られている。
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[編集] 生涯
寛政12年(1800年)3月11日、水戸徳川家江戸小石川藩邸で生まれる。長兄で水戸徳川家第8代徳川斉脩の没後、門閥派より11代将軍徳川家斉の第20子恒之丞(徳川斉彊)を養子に迎える動きがあったが、これを抑え、下士層の支持を得て文政12年(1829年)襲封した。天保2年(1831年)有栖川宮織仁親王の王女登美宮吉子と結婚。藩校弘道館を設立し、門閥派を押さえて、広く人材を登用することに勤めた。こうして、戸田忠太夫、藤田東湖、安島帯刀、会沢正志斎、青山拙斎ら、斉昭擁立に加わった、比較的軽輩の武士を用い藩政改革を実施した。
斉昭の改革は、水野忠邦の天保の改革に示唆を与えたといわれる。天保8年(1837年)7月、斉昭は、1.「経界の義」(全領検地)2.「土着の義」(藩士の土着)3.学校の義(藩校弘道館及び郷校建設)4.「総交代の義」(江戸定府制の廃止)を掲げた。また、「追鳥狩」と称する大規模軍事訓練を実施したり、農村救済に稗倉の設置をするなどした。
しかし、弘化元年(1844年)鉄砲斉射の事件について責任を問われ、幕府から隠居の処分を受けた。弘化3年(1846年)に謹慎解除。嘉永2年(1849年)に藩政関与が許される。
嘉永6年(1853年)6月ペリーの浦賀来航に際して、、老中首座阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関わったが、水戸学の立場から斉昭は強硬な攘夷論を主張し、安政6年(1859年)に将軍継嗣問題及び条約調印をめぐり、越前藩主松平慶永と尾張藩主徳川慶恕、そして実子で一橋家の当主一橋慶喜らと江戸城無断登城の上で大老で南紀派の井伊直弼を詰問したため、永蟄居を命じられた。
万延元年(1860年)8月、蟄居処分が解けぬまま心筋梗塞で急逝する。享年61。桜田門外の変から間もない時期であったために、当時は彦根藩士に暗殺されたのではないかとの風説が流れた。
[編集] 官職位階履歴
※日付=明治5年12月2日までは旧暦
- 1800年(寛政12)3月11日、誕生。虎三郎を称す。
- 1829年(文政12)10月、世継ぎとなる。敬三郎と改める。 11月、水戸徳川家の家督を相続し、藩主となる。 11月18日、従三位に叙し、左近衛権中将に任官し、左衛門督を兼任。
- 1830年(文政13)12月1日、参議に補任。
- 1837年(天保8)2月28日、権中納言に転任。
- 1844年(天保15)5月6日、隠居。
- 1860年(万延元)8月15日、薨去。
- 1862年(文久2)閏8月5日、贈従二位権大納言。
- 1869年(明治2)12月20日、追贈従一位。
- 1903年(明治36)6月27日、追贈正一位。
[編集] 家系
ほか
斉昭は艶福家で、兄嫁・峯姫(徳川家斉娘)の上臈(元・大奥女中)にも手を出していたと言われる(三田村鳶魚の著作より)。このため、大奥の女性達に忌み嫌われており、息子・慶喜の将軍継承にも影響があったとされる。
[編集] 墓所
[編集] その他
[編集] 関連項目
[編集] 関連人物
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