単于
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単于(ぜんう)とは、匈奴を初めとした北アジアの初期遊牧国家の君主号(君主の称号)。
中国で言う王もしくは皇帝に相当する。単于は略称であり、正式には「撐犁孤塗単于(とうりことぜんう)」。撐犁は後のモンゴル語のテングリ(天)、孤塗はやはりモンゴル語のクト(霊威)に相当するとする説が有力であるが、中国が周辺諸民族を懐柔・服属させる際に授けた封号としても用いられた。
単于号を使い始めたのは匈奴であるが、いつ頃に使い始めたのか、語源は何なのかは匈奴自身が記録を残していないために不明である。中国の史書である『史記』「匈奴列伝」に現れる頭曼単于(冒頓単于の父)が初出である。ただし、実際に単于号を創始したのは匈奴国家を強大な遊牧帝国にまで勃興せしめた冒頓単于なのではないかとする説もある。
単于は族長会議にて、匈奴の中心部族である攣鞮氏(れんていし、鞮は革編に是)から選ばれる。基本的に能力主義で長幼はあまり関係が無いが、原則では末子相続で、同時に母の血統も重視されるのが最低限の条件だった。
- ※遊牧民の首長家の婚姻に際しては、嫁入りする妻の実家の遊牧集団を構成する牧民と家畜集団の一部が、妻の家産として新たに夫の遊牧集団に合流するため、母系の発言力が大きくなる。そのため、有力な遊牧集団を背景とした母を持つ後継者でないと、遊牧国家内の広範な支持は得られない。
匈奴帝国が内紛により分裂した後で、西晋は単于の称号を鮮卑(元来は“大人”と称した)などの五胡の首長に対する封号として使うようになり、五胡側でも単于を首長号として使うようになった。例えば鮮卑の慕容廆は鮮卑大単于を名乗っている。
その後、モンゴル系の柔然が可汗(かがん)を名乗るようになり、単于は使われなくなっていった。後に可汗が変化して汗(ハーン)となる。
[編集] 参照文献
- 江上波夫著『騎馬民族国家』(中央公論社、1967)