吉松隆
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吉松 隆(よしまつ たかし、1953年(昭和28年)3月18日 - )は、東京都渋谷区生まれの作曲家。
目次 |
[編集] 人物
幕末維新期の国学者大国隆正の子孫として東京代々木に生まれ育つ。 父方の祖父は東宮(のちの昭和天皇)の侍医。慶應義塾高等学校に 入学した時は医学部進学を希望していたが、やがて交響曲作家に憧れ 志望を変更。慶應義塾大学工学部在学中松村禎三に弟子入り。 作風において影響は全く受けなかったと吉松は自嘲するが、 1974年のピアノ独奏曲「シリウスの伴星によせる」(作品番号1)には 松村を含む現代音楽の影響が濃厚である。和声と対位法を学ぶよう 松村に勧められ、東京藝術大学教授の川井学を紹介されたが 数ヶ月でレッスン受講を断念1974年(昭和49年)3月 尊敬するシベリウスに倣って大学を中退し、苦労をしながら作曲を独学した。 1975年、松村の紹介で原田力男と出会い、1978年11月28日、原田主催の プライヴェート・コンサートで「忘れっぽい天使」を発表し、作曲家として デビュー(ただし作曲料は無償だった)。その間、さまざまな作曲コンクールに 20回ほど応募してことごとく落選したが、1980年、オーケストラのための 「ドーリアン」が交響楽振興財団作曲賞に入選。次いで1981年に 「朱鷺によせる哀歌」が現代の音楽展'81で初演され、高い評価を受け、 若い世代の作曲家の1人として認知された。シュトックハウゼンやクセナキスなど、 無調音楽を中心とする現代音楽の非音楽的傾向に反旗をひるがえし、 「現代音楽撲滅運動」と「世紀末抒情主義」を提唱。 交響曲、協奏曲など数多くの作品を発表。かつては「美しい曲を書いて、 37~38歳で野垂れ死ぬ」ことを理想としていたと吉松は言うが、1998年からは イギリスのシャンドス(Chandos)レーベルと専属作曲家の契約を結び、 日本を代表する作曲家の1人として世界的評価を確立するに至った。 数々のイラストを発表しており、またエッセイストの顔も併せ持つ。 老若男女世界中にファンを持つ。
[編集] 主要楽曲一覧
[編集] 管弦楽曲
[編集] 交響曲
- カムイチカプ交響曲(交響曲第1番)Op.40 (1990年)
- 交響曲第2番「地球にて」 Op.43 (1991年)
- 交響曲第3番 Op.75 (1998年)
- 交響曲第4番 Op.82 (2000年)
- 交響曲第5番 Op.87 (2001年)
[編集] その他の管弦楽曲
[編集] 協奏曲
- ギター協奏曲 「天馬効果」 Op.21 (1984年)
- ファゴット協奏曲「一角獣回路」 Op.36 (1988年)
- トロンボーン協奏曲「オリオン・マシーン」 Op.55 (1993年)
- サイバーバード協奏曲 Op.59 (1994年)
- ピアノ協奏曲「メモ・フローラ」 Op.67 (1997年)
- Fugaku…霊峰富士によせる七つの響景(2002年)
- チェロ協奏曲「ケンタウルス・ユニット」 Op.91 (2003年)
- ソプラノ・サクソフォン協奏曲「アルビレオ・モード」 Op.93 (2005年)
[編集] マンドリンオーケストラ
- 虹色機関 Op.53 (1993年)
[編集] サウンドトラック
[編集] 著書
- 『吉松隆の楽勝!クラシック音楽講座』
- 『世紀末音楽ノオト』
- 『魚座の音楽論』
- 『図解クラシック音楽大事典』