大野藩
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大野藩(おおのはん)は、越前国(現在の福井県大野市二四〇字亀山一番の一)に存在した藩。居城は大野城(亀山城)。
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[編集] 概要
大野城は天正3年(1575年)、織田信長の家臣・金森長近によって築城された。長近が飛騨高山藩に移封された後、大野には青木秀以、長谷川秀一、そして信長の次男・織田信雄が入った。しかし信雄は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与したため、戦後に改易された。そして越前は関ヶ原後に入部された結城秀康の支配下に入り、秀康は大野を重臣の土屋正明を入れたが正明は秀康に殉じたため、小栗美作が入った。そして寛永元年(1624年)、秀康の子・松平直政が大野に5万石で入ることで、大野藩が立藩したのである。寛永12年(1635年)8月に直政が信濃国松本藩へ移されると、代わって越前勝山藩から松平直基(秀康の子)が入った。しかし正保元年(1644年)に直基も出羽国山形藩へ移封され、代わって越前勝山藩より松平直良(秀康の子)が入った。延宝6年(1678年)に直良が死去すると、その子である松平直明が家督を継いだが、直明は天和2年(1682年)に播磨国明石藩へ移封された。
代わって大野には、幕府初期の大老で有名な土井利勝の三男・土井利房が下野国内から入ってくる。利房は天和3年(1683年)閏5月25日に死去したが、その後に受け継がれた藩主によって、藩政の基礎は固められた。ところが天保年間に入ると飢饉が藩内を襲い、藩財政は大いに逼迫した。このような中で第7代藩主・土井利忠は財政再建を主とした藩政改革に取り組んだ。そして生産性の向上・教育制度の普及・有能な人材の登用・藩借金の整理などを行なった結果、改革後8年にして利忠は借金を処理することに成功したのである。その後も利忠は藩営病院の設立、西洋軍制の導入、種痘の実施、有能な人材の藩校就学の徹底と遊学の奨励など、積極的な改革を行なって多くの成功を収めた幕末期の名君であった。
文久2年(1862年)に利忠が病で隠退した後はその三男・土井利恒が藩主となる。利恒は明治2年(1869年)の版籍奉還で大野藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で大野藩は廃藩となって大野県となる。大野県は後に福井県に編入された。
[編集] 歴代藩主
[編集] 越前松平氏(えちぜんまつだいらし)
親藩。5万石。
- 松平直政(なおまさ)従四位下。侍従。出羽守。
[編集] 越前松平氏(えちぜんまつだいらし)
親藩。5万石。
- 松平直基(なおもと)従四位下。侍従。大和守。
[編集] 越前松平氏(えちぜんまつだいらし)
親藩。5万石。
[編集] 天領(てんりょう)
[編集] 土井氏(どいし)
譜代。4万石。
- 土井利房(としふさ)従四位下。侍従。能登守。
- 土井利知(としとも)従五位下。甲斐守。
- 土井利寛(としひろ)従五位下。伊賀守。
- 土井利貞(としさだ)従五位下。能登守。
- 土井利義(としのり)従五位下。造酒正。
- 土井利器(としかた)従五位下。甲斐守。
- 土井利忠(としただ)従五位下。能登守。
- 土井利恒(としつね)従五位下。能登守。