太田資宗
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太田資宗(おおた すけむね、慶長5年(1600年) - 延宝8年1月22日(1680年2月22日))は江戸時代初期の譜代大名、若年寄。官位官職は従五位下・備中守。江戸城を造った太田道灌の子孫。
[編集] 経歴
- 太田重正の次男として生まれる。祖父は太田康資。
- 慶長11年(1606年)7歳にして徳川家康に拝謁。
- 慶長15年(1610年)関東地方などに5,600石を領する太田家の家督を継ぐ。当初、康資(祖父と同名)と称し家康側近となる。
- 元和元年(1615年)従五位下・摂津守に叙任。のち采女正。
- 寛永8年(1631年)御小姓組組頭となる。
- 寛永10年(1633年)3月23日、松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛・三浦正次・阿部重次と共に六人衆となる(後年の若年寄に相当する)。
- 寛永12年(1635年)下野国足利郡山川(栃木県足利市)に1万石を加増され、15,600石の大名に列せられる。備中守に叙任。
- 寛永15年(1638年)約2万石の加増を受け、3万5千石にて三河国幡豆郡西尾(愛知県西尾市)に移封。
- 寛永18年(1641年)太田資宗が奉行となり、林羅山を実務担当として本格的な武家系譜の編纂を開始。
- 寛永20年(1643年)9月に武家系譜編纂書『寛永諸家系図伝』完成。3代将軍・徳川家光に2部(真名本、仮名本)それぞれ186巻(計372巻)を献上。
- 正保元年(1644年)遠江国浜松(静岡県浜松市)に3万5千石をもって移封。
- 寛文11年(1671年)隠居。
- 延宝8年(1680年)1月22日、81歳(数え年)にて没。
[編集] 妻子
正室は板倉重宗の娘。子に太田資次、加藤泰義室、永井尚庸室、一柳末礼室、土井利益室ら。
[編集] 関連項目
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