奥田重盛
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奥田 重盛(おくだしげもり(孫太夫 まごだゆう))正保2年(1645年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日))は赤穂浪士四十七士の一人。赤穂藩では武具奉行、150石。最初、兵右衛門を名乗っていた。
父は奥田孫太夫。母は久米半右衛門(相馬長胤家臣)女。奥田家は志摩国鳥羽藩内藤家の家臣で、兵右衛門は寛文2年(1662年)に内藤飛騨守忠政の娘波知が赤穂藩主浅野采女正長友(浅野長矩の父)に嫁したとき付人として赤穂藩に移り江戸藩邸でつとめた。
延宝8年(1680年)内藤和泉守忠勝が芝増上寺での将軍家綱の葬儀の場で永井信濃守尚長を殺害し、鳥羽藩はお取り潰しとなった。このため父の孫太夫は浪人となったが、兵右衛門はそのまま赤穂藩に仕えた。
兵右衛門は江戸で剣客として知られた堀内源太左衛門に学び、堀部安兵衛とともに高弟に数えられ、大太刀の使い手であった。兵右衛門には男子がなく、近松勘六の弟貞右衛門を養子に迎える。
元禄14年(1701年)3月14日、主君浅野内匠頭が江戸城松之大廊下で吉良上野介に刃傷に及び、浅野内匠頭は即日切腹、赤穂藩は改易と決まった。兵右衛門は江戸詰の藩士堀部安兵衛、高田郡兵衛とともに赤穂へ赴き、家老大石内蔵助に篭城を迫っている。赤穂城開城後に江戸へ戻り、兵右衛門は堀部、高田とともに強硬に仇討ちを主張する急進派の中心となる。
同年6月、浅野内匠頭の百カ日法要が行われ、兵右衛門は高田、堀部と供に泉岳寺に参詣して仇討ちを誓った。彼らはその帰りに元家老の安井彦右衛門を訪ねて仇討ちへの助力を談じ込んだ。安井は態度をあいまいにして言い逃れたが、後で安井が陰口を言ったことを知り、兵右衛門は大変に怒ったという。
江戸の急進派を鎮撫するために大石内蔵助は原惣右衛門、大高源五らを送るが兵右衛門たちは彼らを説得して急進派に加えてしまう。このため大石内蔵助自らが江戸へ下り、兵右衛門たちを説得せねばならなかった。
元禄15年(1702年)3月頃に父の名を継いで孫太夫と改める。深川八幡町続いて黒江町へ移り、医師、西村清右衛門を名乗って養子の貞右衛門と潜伏した。
同年7月の円山会議で仇討ちが決定。12月14日の討ち入りでは表門隊に属し、二尺余の大太刀を持って屋内で奮戦した。
討ち入り後、細川越中守綱利屋敷にお預けとなる。元禄16年(1703年)2月3日、幕府は赤穂浪士46人へ切腹を申し付けた。切腹に際して、孫太夫は細川家接待役の堀内伝右衛門に切腹の稽古をしたことがなくどうすればよいのかと大真面目に尋ね、富森助右衛門がただ首を差し出せばよいと答えたという話が「堀内覚書」に残っている。享年57。