孫ピン
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孫臏(そんぴん、紀元前4世紀頃)は中国戦国時代の斉の武将で、兵家の代表的人物の一人。彼の生まれる百数十年前に没した孫武の子孫であると言われ、遠祖の孫武と同じく『孫子』と呼ばれる。
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[編集] 略要・人物
[編集] 旧友に嵌められる
『史記』孫子伝によると、孫臏は斉と魯と国境にある阿・鄄の生まれである。元の名は濱(濵)だと言われ、父は先祖の孫武と同様に兵法学の学者だったという。一方、魏の将軍である龐涓(ほうけん、龐は{广+龍})とは若い頃にかつて共に兵法を学んだ仲だった。だが、当時から孫臏は優秀であったために、そのことで劣等感を感じ孫臏の才能を恐れ、かつ憎悪した龐涓はかつての同門を偽りの招待をした。そして、その最中に龐涓によって謀られた孫臏は龐涓と共謀した魏の恵王の命で、脚を切断する刑と額に罪人の印である黥(=げい、刺青のこと)を入れる刑に処せられた。こうして、元の名の孫濱(濵)から、額に黥されしまい、断脚という屈辱な処罰を受けて以降、彼は「膝頭の骨」を意味する「臏」({月賓})という文字を名として用いるようになる。その後、龐涓を徐々に油断させて、頃を見計らってから斉の公族に属する田忌の手引きによって帰国し、そのまま斉の食客となった。
[編集] 斉王に仕える
ある時に、田忌は親戚に当たる斉の諸公子と競馬を催したが、孫臏は王も巻き込んで諸公子の所有する上等の馬が出る競走に田忌の所有する下等の馬、中等の馬が出る競走に上等の馬、下等の馬が出る競走に中等の馬を出させることによって、田忌を二勝一敗させ千金を儲けさせた。このことから孫臏は才能を認められ、斉の威王も競馬で孫臏の才能をこの目で見たので、彼は王によって軍師に任命された。
[編集] 桂陵の戦い
魏が趙を攻撃した時、斉王は趙に救援を求められて田忌を孫臏と共に派遣して趙を救援させた。だが、孫臏は趙に向かおうとする田忌を途中で留めて魏本国を攻めることで、魏軍を撤退させ、引き返して来た魏軍を桂陵の戦いで大破して趙を救った(これが囲魏救趙という故事となった)。
[編集] 馬陵の戦い
13年の歳月が流れ、魏が龐涓を将軍として韓を攻めると、再び田忌が将軍、孫臏が軍師となって韓の救援に派遣された。孫臏は斉軍の陣営の竈の数を次第に減らしながら、兵を動かして脱走兵が相次いだかのように偽装し、兵法に通じた龐涓を油断させた。少数の兵をもって追撃を図った龐涓は伏兵に適した馬陵の地に誘い込まれ、戦死した。この時に孫臏は木の枝に板を吊るして「龐涓死于此樹之下(龐涓この樹の下にて死せん;龐涓はここで死ぬ)」と書き記し、夜半になって当地に到着した龐涓がその大木に記されている字を読もうとした途端に、明かりを目がけて矢を打ち込み、龐涓は「遂成豎子之名(遂に豎子の名を成さしむ;とうとう、あのこわっぱに名を成さしめたか)」と言い残して自刎したという。以上が史記の記述である。この馬陵の戦いの勝利により、兵家孫臏の名は天下に響いたと伝えられる。だがこの戦い以降、孫臏は歴史上から姿を消した。一説によると、馬陵の戦いの後に兵法書を著していたとされている。なお、孫臏の没年は紀元前316年の説があるという。
また、孫臏兵法によると、龐涓は自殺ではなく捕らわれたとの記述にとどまっている。孫臏兵法の歴史的な検証の結果如何によっては、歴史上の定説に対する異論がいくつか生まれる可能性もある。
[編集] 孫臏兵法
孫臏は孫武と同じく兵法書を著したが、彼の兵法は孫武の『孫子』と区別して『斉孫子』などと呼ばれていたらしい。しかしながら、次第に散逸し、あるいは現存する『孫子』自体が孫臏の著作ではないかとも推定されていたが、1972年に至って山東省で孫臏の著した兵法書の竹簡孫子が発掘されたことにより、『孫子』の著者ではないことが明らかになった。この新出土の兵法書は『孫臏兵法』と名づけられている。