宇多頼忠
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宇多 頼忠(うだ よりただ、?-1600年10月23日(慶長5年9月17日))は、安土桃山時代の武将(大名)。通称は尾張下野守。宇田とする説もある。豊臣秀長の家臣。真田昌幸、石田三成の妻の父として有名。 兄は秀吉の家臣だった尾藤甚右衛門知宣。頼忠自身も初名は尾藤二郎三郎、または久右衛門と称している。
[編集] 経歴
尾藤氏はもともと信州中野牧を本拠とし、信濃の守護であった小笠原家に臣従していた武士であったが、小笠原長時が武田信玄に敗れて所領を失い上杉謙信を頼って亡命すると、本拠を遠江引佐郡に移している。桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、遠江は武田信玄と徳川家康の争奪戦に翻弄されることになり、頼忠の伯父尾藤主膳は徳川家康に臣従しなかったために永禄12年(1569年)3月27日、居城の堀川城を家康に攻められて切腹させられ、城兵一千人、領民七百人が全員惨殺されている。
これ以前の永禄3年(1560年)5月、すなわち桶狭間の戦いの直後に頼忠の父尾藤源内と長兄又八郎が尾張に移って森三左衛門可成(長可、蘭丸の父で織田信長の家臣)に仕えていた。そして、『信長公記』によれば、可成が元亀元年(1570年)、朝倉・浅井連合軍に攻められて守備を任されていた近江宇佐山城で戦死した時、これに殉じて戦死したという。このあたり、謎が多い経歴だが、森可成が諜報に長じていたことからすると、あるいは最初から織田方の対今川諜報活動に関わっていたのかもしれない。次兄の知宣は父と兄が戦死する少し前の永禄年間に、秀吉に仕えるようになっている。 ともあれ、その後もしばらく頼忠は引佐郡に当主として残っており、永禄7年(1564年)頃に武田信玄の家臣だった真田昌幸に長女を嫁がせたのはこの頃に武田家に臣従し、忠誠を誓うための政略結婚だったと考えられる。
長篠の戦いで武田家が遠江で勢力を失うと、頼忠は所領を捨てて兄知宣を頼って近江の長浜城へ赴き、その紹介で知宣の主君羽柴秀吉の弟秀長の家臣となった。「竹生島奉加帳」には彼の名が兄知宣と共に残っている。 秀吉、秀長の出世と共に累進し、秀吉が天下を取って秀長が百万石の領主として大和郡山城に入った頃には、家臣団の中でも藤堂高虎に次ぐ一万三千石を領する重臣となっていた。石田三成に次女を嫁がせたのはこの間のことで、秀吉の家臣団の中でのごく普通の縁組である。
兄知宣が九州征伐で秀吉の不興を買って改易され、後に小田原の役の時に惨殺される事件が起きると、頼忠は宇多と改姓して婿の三成のもとに身を寄せた(この時に一万三千石を返上したという説が有力)。関ヶ原の戦いの後、三成の居城であった近江佐和山城は東軍に攻撃され、頼忠は息子の頼重、三成の父正継、三成の兄正澄らと共に自害した。