安国寺恵瓊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい、天文8年(1539年) - 慶長5年10月1日(1600年11月6日))は、戦国時代から安土桃山時代の禅僧、大名。字は瑤甫。俗姓は武田氏で、「安国寺」は住持した寺(安芸安国寺(不動院))の名である。
毛利氏の外交僧(武家の対外交渉の任を務めた禅僧)から、最終的には僧侶の身分のまま大名となった。
[編集] 生涯
恵瓊は、安芸守護であった武田信重の子と伝えられる。
1541年、幼少時に生家の安芸武田氏が滅亡した後、安芸安国寺(不動院)に入って出家した。その後、京都の東福寺に入り、竺雲恵心の弟子となる。僧侶としては、1574年、35歳の時に安芸安国寺の住持となり、後に東福寺、南禅寺の住持にもなり、中央禅林最高の位にもついた。慶長4年(1599年)には建仁寺の再興にも尽力している。
一方、毛利家が恵心に帰依していた関係から、早くに毛利家に仕える外交僧となった。
1570年には豊後の大友家との和睦を取りまとめる事に成功する。1573年12月12日付山県越前守・井上春忠宛書状で、「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候」と書いており、織田信長の横死と、その家臣の羽柴秀吉の躍進を予言していたと言われている(ただし、これは信長の死後に流布したもので、これが予言かどうか、またいつから流布したのかは実際には定かではない。)。
1582年、毛利氏が羽柴秀吉と備中高松城で対陣していた最中に本能寺の変が起き、織田信長が本能寺にて横死した。このとき羽柴秀吉はその事実を隠して毛利氏に和睦案を提示。外交僧である恵瓊はその和睦を取りまとめた。彼は秀吉がこれから躍進することを予測して進んで和睦を取りまとめたとされ、秀吉の信任を得る。
1586年に秀吉の九州征伐が行われると、伊予6万石を与えられ、僧侶でありながら豊臣大名という異例の位置付けの大名となった。
恵瓊は毛利一族の中では親秀吉派の中心であった小早川隆景に近く、その没後、小早川氏と並ぶ毛利氏の支柱であった吉川広家と対立した。そして1600年の関ケ原の戦いでは懇意であった石田三成と通じて西軍に与し、毛利一族の当主毛利輝元を西軍の総大将として担ぎ出すことに成功した。9月15日の関ヶ原における合戦では、毛利秀元、吉川広家とともに徳川家康の軍の後方に陣取ったが、前に布陣する広家が家康にひそかに通じて毛利軍の参戦を阻んだため戦闘に参加することなく終わった。
石田方の敗北後、恵瓊は逃亡したが京都で捕縛され、西軍首脳の1人として、六条河原にて斬首された(彼が処刑されたのは、もともと反徳川の旗幟を鮮明にしていなかった毛利氏を西軍に引き込んだことが原因と推測する見解もある)。
墓所は建仁寺本坊内の庭に首塚があり、広島の不動院にも墓がある。
[編集] 関連項目
- 不動院
- 宰相殿の空弁当
- 広島県出身の有名人一覧
- 鬼武者2:プレイヤーキャラクターの1人として登場。