宋旻淳
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宋旻淳 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 송민순 |
漢字: | 宋旻淳 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
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片仮名: (現地語読み仮名): |
ソン・ミンスン |
ラテン文字転写: | Song Min-soon |
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宋 旻淳(ソン・ミンスン、1948年7月28日 - )は大韓民国の外交官、政治家。2006年12月から盧武鉉政権の外交通商部長官を務めている。慶尚南道出身。
ソウル大学校でドイツ文学を学び、1975年に外務部へ入る。駐西ベルリン副領事、インドを経て1986年から3年間、在米大使館の一等書記官として米国駐在。1997年に外交通商部北米局長、2001年にポーランド大使、2005年に外交通商部次官補などを歴任。第四回、第五回六者協議では韓国の首席代表を務めた。2006年1月より大統領秘書室統一外交安保政策室室長として外交と安保を統括した。2006年9月の米韓首脳会談で合意した、北朝鮮に対する「共同の包括的アプローチ」を案出したことから、盧武鉉より「無から有を生じさせる人」と称えられた[1]。また、この「包括的アプローチ」も彼の名をとって「Sプロジェクト」と呼ばれている[2]。(ただし、北朝鮮の核実験宣言によりSプロジェクトは事実上凍結されている)
北朝鮮による核危機の深刻化に伴い、従来の韓国外交の基本方針である対米協調よりも、宥和と統一を優先する発言を繰り返し行っている。
2006年12月、国連事務総長に当選した潘基文の後任として、外交通商部長官に就任した。
[編集] 人物像
- 米国との交渉の際、「軍人のような」という評から「宋大佐」とあだ名を付けられたことがある[3]。
- 2006年10月18日、「米国はどの国よりも多くの戦争をしてきた国」と発言し[4]、友邦の気分を害したと与野党から叱責された。朝鮮戦争で韓国を守るために多くの犠牲を払った米国からも、発言の真意の説明を求められた。また同じ場で「国連に韓国の運命を任せるのは自らの運命を放棄するということ」とも発言し[5]、国際社会による北朝鮮制裁に対して否定的な認識を明らかにしている。
- 2007年1月12日、「拉致された日本人は10人余りにすぎない。韓国には数百人がいるが、何も言わない」と、北朝鮮による拉致被害者の親族感情に配慮しない発言を行った[6]。
[編集] 略歴
- 1975年、外務部(当時)に入る。
- 1989年、外務部安保課課長。
- 1991年、外務部北米課課長。
- 1994年、アメリカハーバード大学国際問題研究所研究員。
- 1995年、外務部米洲局北米審査官。
- 1997年、外務部長官補佐官、大統領秘書室外交安保秘書室国際安保秘書官、外交通商部北米局局長。
- 2001年、駐ポーランド大使館大使。
- 2004年、外交通商部企画管理室室長。
- 2005年~2006年、外交通商部次官補。六者協議韓国首席代表。
- 2006年1月、大統領秘書室統一外交安保政策室室長。
- 2006年9月、米韓首脳会談随行、陪席。
- 2006年11月1日、外交通商部長官に内定。
- 2006年12月1日、外交通商部長官に就任(現職)。
[編集] 脚注
- ^ (朝鮮語)『外交・安保ライン入れ替えの中「生存」宋旻淳なぜ?』、ハンギョレ、2006年10月27日。
- ^ 『【核開発】韓米両国が進める「Sプロジェクト」とは』、朝鮮日報、2006年9月25日。
- ^ 『宋旻淳氏、盧大統領の抜てきで親米から反米に』、朝鮮日報、2006年11月2日。
- ^ 『大統領府「米国は戦争国家、戦争起きれば被害者は韓国」』、朝鮮日報、2006年10月19日。
- ^ 『宋安保室長「国連に国の運命を預けるのは…」』、朝鮮日報、2006年10月19日。
- ^ 『盧大統領「北の日本人拉致」 議長声明採択をけん制』、中央日報、2007年1月19日。
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