潘基文
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潘基文 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 반기문 |
漢字: | 潘基文 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
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片仮名: (現地語読み仮名): |
パン・ギムン/バン・ギムン |
ラテン文字転写: | Ban Ki-moon |
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潘基文(パン・ギムン, Ban Ki-moon、1944年6月13日 - )は大韓民国の外交官、政治家、第8代国際連合事務総長。
目次 |
[編集] 経歴
忠清北道陰城郡出生。1970年2月にソウル大学校外交学科を卒業し、同月高等外交官試験に合格、3月に外交部に入部した。1972年の駐インド韓国大使館副領事を初め、1974年同二等書記官など主に海外勤務畑を歩み、1980年に外交部国際組織条約局国連課長に就任した。
その後外交部派遣によりハーバード大学ケネディ行政大学院に留学し、1985年4月に修了、修士号を取得した。1985年4月に首相外交儀礼担当秘書、1987年7月には駐米大使館総領事、1990年6月に外交部米州局局長、1992年2月に外相特別補佐官、1992年7月に駐米公使、1995年2月の外交部副長官を経て、1996年11月には金泳三大統領の外交安全保障担当大統領特別秘書となった。
その後2000年1月には外交通商部副長官、2001年5月に国連大使、2002年2月に無任所大使を経て、2003年2月に盧武鉉大統領の外交政策補佐官、2004年1月からは外交通商部長官(外務大臣)に任命されている。
盧武鉉政権下では、大統領府主導で政策決定が行われているため、潘基文は大統領府と外国政府の板ばさみになって大いに苦労した。自らの発言の数日後に、その発言と反する内容の大統領発言があったり、大統領の問題ある発言の後始末に負われる姿は気の毒ですらあった。ただ、その中でも誠実に仕事をこなしていった姿、彼の持ち味である調整力が潘基文個人への評価へとつながっていった。
[編集] 人物評価・逸話
高校時代、英語コンクールで入賞して訪米し、ケネディ大統領と面会した。これにより外交官を志すようになった。
柔和な笑みを絶やさず、礼儀正しいという評価の一方で、一度決めたらテコでも動かないという芯の強さを秘める。そんなところから、「外柔内剛」にもうひとつ「剛」をつけて「外柔内剛々」(韓国・聯合ニュース)と呼ばれる。国連でも“外柔”である穏健なイメージを守り、着実に支持を広げていた。
一方、上司の言うことは何でも聞く「イエスマン」(韓国経済新聞)、「米国べったり」(アジア外交筋)、「本音を出さず、無色無臭で生き残った」(韓国紙日本特派員)等の辛口の評価も韓国国内ではあるようだ[1]。
「仕事が趣味で運動にもなる」と公言する仕事の虫であるが、電話をくれた人には必ず直接電話をかけ直すなどの気配りも絶対に忘れず、周囲の受けは悪くないと伝えられる。
[編集] 日本との関連
潘は外交通商部長官就任後、盧武鉉政権の対日強硬路線に沿って日本への厳しい批判を繰り返した。マスコミとの会見においては、小泉首相の靖国神社の参拝強行、日本政府の「歴史歪曲」や竹島に対する領有権主張などによって日韓関係が冷え込んでいると主張、日韓関係改善には日本が歴史問題を正しく認識すべきであると主張した[2]。
しかし一方で潘は、小泉純一郎前首相の靖国神社参拝で日韓関係が冷え切った中でも関係改善に努力していた点から、日本の外務省にもいい印象を与えているようである。北朝鮮の核問題などをめぐる交渉で知己を得た佐々江賢一郎アジア大洋州局長は、「バランスが取れ、よく考える人だ。何より日本への偏見がないのがいい」と評価する[1]。
2006年10月20日、ソウルを訪問した麻生外相との会談で潘は北朝鮮による日本人拉致問題に触れ、「拉致問題では国連事務総長として特別の関心を払いたい。協力していきたい」と述べた [3]。
潘は11月6日に来日し麻生外相と再び会談、日本人拉致事件について「拉致問題に関する日本の関心は誰よりも承知している。事務総長としてできる協力をしたい。役に立つことがあるのではないか」と述べた [4]。
[編集] 国連事務総長への立候補
アナン国連事務総長の任期が2006年12月31日をもって満了するため、2006年2月に後任選挙に立候補することを表明した[5]。他の有力候補にはインドのシャシ・タルール国連事務次長(広報局長)、タイのスラキアット副首相、スリランカのジャヤンタ・ダナパラ元国連事務次長(軍縮局長)の名があげられたが、7月24日に行われた国連安全保障理事会の各理事国による予備投票において潘は最も多くの票を獲得し、有力候補の一人となった[6]。
2006年10月2日、国連安全保障理事会は4度目の予備投票を行った。この結果、拒否権を持つ常任理事国5カ国が一致して潘を支持し(安保理全体では14カ国の支持)、当選が確実となった[7]。
潘は厳しい日韓関係の中でも、日本の外務大臣麻生太郎との会談で信頼関係を醸成した点など、“外交のプロ”と言われ日本外交当局の評価も高かった[7]。麻生は2006年10月3日、潘の事務総長立候補への支持を表明し、実質日本政府も潘の支持を決定したとみられる。同日、大島賢三国連大使は「アジアの優れた候補から選出するという目的に沿った方向で事態は動いている。日本政府としての態度を最終決定した上で、正式投票に臨む」と語った[8]。
潘は米国と縁が深く、米国政府との関係も良好と見られる。10月3日、潘の当選が確実となった予備投票の結果を受けて、米国のボルトン国連大使は「米国はこの結果を歓迎する」と述べた[9]。
2006年10月20日、ソウルを訪問した日本の麻生外相は潘が次期国連事務総長に当選したことについて「我々もアジアとしても大変誇らしい」と祝福した。これに対して潘は「日本は国連で活動を活発にしている重要な国だ。安保理議長国として努力していることを評価する」「事務総長に就任したら、日本と緊密に連携、協調していきたい」と述べた [10]。
2006年10月14日、国連事務総長に当選、2007年1月1日から5年間事務総長職を務める。
2007年1月2日、初出勤。その際に、サダム・フセイン元イラク大統領の死刑執行に対してマスメディアから意見を求められた際に、「死刑は各国が決めなければならない問題」と発言。死刑を否認している国連の立場と矛盾した発言を行ったとして批難が集中。のちに弁明することとなった。
2007年3月22日、イラクへ電撃訪問。バグダッドのイラク首相府で記者会見を行ったが、その際にテロリストから迫撃砲を受けた。潘は無事で、負傷者も出なかったが、のちにテロリストが潘を狙って迫撃砲を撃ったことをホームページで告白した。[11]
[編集] 参照
- ^ a b "人事「次期国連事務総長に潘基文氏」", 五味洋治(東京新聞外報部), 週刊東洋経済, 2006.10.14, P122
- ^ "潘基文長官の事務総長出馬は「国連への恩返し」", YONHAP NEWS, 2006/05/24
- ^ "麻生外相、韓国大統領と会談…対北の日米韓連携を評価", 読売新聞, 2006/10/20
- ^ "次期国連事務総長「拉致に積極対応」", 産經新聞, 2006/11/6
- ^ "Minister Ban to Run for Top UN Job" The Korea Times, 02-14-2006
- ^ "予備投票で韓国トップ 安保理、次期事務総長", 産經新聞 07/25
- ^ a b "国連事務総長に潘氏当選確実 常任理事国一致して支持", 産經新聞 10/03
- ^ "潘基文・韓国外交通商相、次期国連事務総長に当確", 読売新聞 10/03
- ^ "Council Backs South Korean for U.N. Secretary General", New York TImes 10/03
- ^ "北朝鮮制裁「強要しない」 麻生外相、韓国大統領と会談", 朝日新聞 2006/10/20
- ^ アラブ諸国「迫撃砲、潘基文総長狙った」 中央日報
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