宮脇長吉
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宮脇 長吉(みやわき ちょうきち 1880年2月5日 - 1953年2月16日)は、日本の軍人・政治家。紀行作家宮脇俊三(1926年 - 2003年)の父。
[編集] 来歴・人物
香川県の農家の四男として産まれる。兄弟には田中義一内閣や幣原喜重郎内閣等で大臣を務めた政治家三土忠造(漢学者だった三土家の養子となった)、内務官僚として埼玉県や千葉県等の知事を歴任した宮脇梅吉(埼玉県知事時代に、初めて大宮・浦和・与野の「埼玉市」を構想した)がおり、地元では優秀な兄弟として知られていた。
1903年に陸軍士官学校を卒業、日露戦争の決死隊長などで戦功を挙げた他、陸軍士官学校の教官などを歴任したが、陸軍大佐を最後に退役。その後初の普通選挙となった1928年の帝国議会の総選挙で政友会から立候補し、当選。その後も5回連続当選を果たしている。軍人出身ながら自由主義者と交流が深く、軍の勢力拡大・政治介入には反対の立場であった。息子俊三の著作『時刻表昭和史』には、列車内で不遜な態度を取る将校と対立する場面が描かれている。
1938年には、国家総動員法の委員会審議で横柄な演説をした説明員の佐藤賢了陸軍中佐に対して野次を飛ばし、佐藤に「黙れ!」と怒鳴られるという事件が起きた(黙れ事件)。これは軍による議会軽視を象徴する事件として記憶されている(ちなみに佐藤は陸軍学校教官時代の教え子にあたる)。
また1940年に斎藤隆夫議員が反軍演説で除名された際にも、芦田均らと共に反対票を投じている(ちなみに反対者はたった7名しかいなかった)。
このように反軍的な立場であったために、1942年の翼賛選挙では大政翼賛会の推薦を受けられずに落選。さらに戦後は元軍人であったために公職追放を受けて立候補できなかった。戦前は自由主義者であるがゆえに、そして戦後は元軍人であるがゆえに政治家としては不遇な立場に置かれてしまったのである。
その後は鉱山会社の経営に携わっていたが1953年、唯一の残った男子である三男・俊三(既に長男・次男は病死していた)が肺結核で倒れたことに落胆し、高血圧だったにも関わらず医師の勧めも無視して無理を重ねた。そのため東海道線の車内で脳溢血に倒れ、失意のうちに死去した。