佐藤賢了
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佐藤 賢了 | |
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1895年6月1日 - 1975年2月6日 | |
忠誠 | 大日本帝国陸軍 |
階級 | 陸軍中将 |
賞罰 | 終身刑 (東京裁判) |
除隊後 | ベトナム戦争反対運動家 |
佐藤 賢了(さとう けんりょう、1895年6月1日 - 1975年2月6日)は、 昭和期の陸軍軍人。石川県河北郡花園村(現金沢市)出身。
[編集] 来歴・人物
金沢一中を経て、1917年5月陸軍士官学校卒業。1925年陸軍大学卒業。陸軍中将。陸軍省軍務局長を務めた。
1938年3月、国家総動員法審議中に、議員からの野次に対し「黙れ!」と一喝して問題になった(「黙れ」事件)。相手の議員は『時刻表昭和史』(宮脇俊三著)によると立憲政友会の宮脇長吉(宮脇俊三の父)。宮脇は退役陸軍大佐で、嘗て佐藤が陸軍士官学校生徒だったときの教官であった。
1942年、陸軍省軍務局長。1943年、山本五十六が戦死した際にはミッドウェー海戦の失敗を引き合いに出して「国葬にするのは適当ではない」と東條英機首相に進言したが、東條は陸海軍の協調を優先して進言を退けた。「三奸四愚」と呼ばれた東條の側近の四愚の一人ともいわれる。
太平洋戦争後、極東国際軍事裁判で終身刑の判決を受けて服役し、1956年に釈放。その後ベトナム戦争反対運動に参加して話題になった。
極東国際軍事裁判・A級戦犯 |
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