田中義一
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田中 義一(たなか ぎいち、元治元年6月22日(1864年7月25日) - 1929年(昭和4年)9月29日)は、日本の陸軍軍人、政治家。第26代内閣総理大臣(在任: 昭和2年(1927年)4月20日) - 昭和4年(1929年)7月2日)。陸軍大将 勲一等 男爵。
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[編集] 軍人として
萩藩士・田中信祐、みよの三男として萩(現山口県萩市)にうまれた。父は藩主の御六尺(駕篭かき)をつとめる軽輩者の下級武士だったが武術にすぐれた人物だったという。
陸軍教導団、陸軍士官学校、陸軍大学校を経る。日清戦争に従軍。その後、ロシアに留学した。ロシア留学時代はロシア正教に入信し、日曜毎に知り合いのロシア人を誘って教会へ礼拝に行くなど徹底したロシア研究に専念した。また、地元の連隊に入隊して内部からロシア軍を調査した。このため日露戦争前は陸軍屈指のロシア通と自負していた。長州閥の後ろ盾もあったが、軍人としては極めて有能であった。しかし、同時期ロシアに留学していた海軍の広瀬武夫と一緒に酒を飲むと強硬な開戦論を叫ぶなど、一本気で短絡的な性格であった。
日露戦争では満州軍参謀。1910年、在郷軍人会を組織した。1915年参謀次長。原敬内閣、第二次山本權兵衞内閣で陸軍大臣を務めた。
田中は原内閣で陸軍大臣になったあと、男爵授爵、陸軍大将進級と慶事が続いたが、好事魔多しでまもなく狭心症に倒れ、大磯での静養生活を余儀なくされた。大臣を辞めて、回復してからも軍事参議官の閑職に留まるなど大事をとっていた。
将来は元帥ともいわれたが、政界への転身を図り、1925年立憲政友会総裁に就任。この際、300万円の政治資金を持参金としたが、陸軍機密費から出たものではないかと疑惑を持たれた。(陸軍機密費横領問題)
[編集] 田中義一内閣
1927年(昭和2年)3月、若槻禮次郎内閣(第1次)のもとで全国各地の銀行で取り付け騒ぎが起こった(昭和金融恐慌)。若槻内閣は同年4月に総辞職し、代わって立憲政友会総裁の田中が内閣を組閣した。田中は、高橋是清を蔵相に任命、高橋は全国でモラトリアム(支払猶予令)を実施し、金融恐慌を沈静化した。
田中内閣は憲政会政権下で行われてきた幣原喜重郎らによる協調外交方針を転換し、積極外交に路線変更した。5月、山東出兵や7月、東方会議開催するなど満蒙地帯における日本の特殊権益堅持の政策を提出した。
1928年(昭和3年)2月に第1回普通選挙が行われ、社会主義的な活動が目だったことから、同年3月に全国の社会主義者、共産主義者を一斉に検挙した(三・一五事件)。
1928年に起こった張作霖爆殺事件に際して、国際的な信用を保つために容疑者を軍法会議によって厳罰に処すべきと主張したが、陸軍の強い反対にあい果たせず。この事を野党立憲民政党に批判され、また昭和天皇にも叱責されたため、内閣総辞職を余儀なくされた(1929年)。
[編集] 総辞職後
狭心症の既往があった田中に天皇の叱責はやはり堪えた。退任後の田中はあまり人前に出ることもなく塞ぎがちだったという。内閣総辞職から3ヵ月もたたない1929年9月28日、田中は貴族院議員当選祝賀会に主賓として出席するが、見るからに元気がなかった。そして翌29日午前6時、田中は急性の狭心症で帰らぬ人となった[1]。
昭和天皇は、田中を叱責したことが内閣総辞職につながったばかりか、死に追いやる結果にもなったかもしれないということに責任を痛感し、以後は政府の方針に不満があっても一切口を挟まなくなった。
なお田中の長男は貴族院議員、山口県知事、衆議院議員、第1次岸内閣の官房副長官、第2次佐藤内閣の総理府総務長官、福田内閣の通産相、鈴木善幸内閣の文相などを歴任した田中龍夫である。
[編集] 重量内閣
田中内閣には元総理や次の総理を狙う大物政治家、そして将来の総理や枢密院議長などが肩を寄せ合い、大物揃いの内閣となった。
田中義一内閣の主な顔ぶれ
- 内閣総理大臣: 田中義一
- 外務大臣: 田中義一 (兼任)
- 内務大臣: 鈴木喜三郎 → 後に政友会総裁
- 大蔵大臣: 高橋是清 → 元政友会総裁・内閣総理大臣
- 陸軍大臣: 白川義則
- 海軍大臣: 岡田啓介 → 後に内閣総理大臣
- 司法大臣: 原嘉道 → 後に枢密院議長
- 文部大臣: 三土忠造
- 逓信大臣: 久原房之助 → 後に政友会正統派総裁
- 内閣書記官長: 鳩山一郎 → 後に自由党 (政友会の流れを汲む) 総裁、民主党総裁、内閣総理大臣
田中は外務大臣を兼任し、対中積極論者の森恪を外務政務次官に起用して、「お前が大臣になったつもりでやってくれ」と実務の全てをまかせていた。森は事実上の外相として辣腕を振るい、山東出兵、東方会議、張作霖に対する圧迫などといった対中強硬外交が展開されるが、ある程度の協調が望ましいとする田中と、あくまでも積極的な外交をよしとする森は、やがて対立するようになる。そこに事務方の外務事務次官としてやってきたのが、奉天総領事をつとめ、中国問題に詳しいと自負していた吉田茂であった。
[編集] 注
- ^ 田中が死亡したのが別宅であったことから、妾宅で腹上死したのではないかという憶測がある。『田中義一伝記』によるとこの女性は、入籍はしていないが田中を長年支えてきた女性であるという。
[編集] 関連項目
- 「オラが (俺が)」は田中の口ぐせで「おらが総理」と呼ばれた。
内閣総理大臣 | ||
第25代 若槻禮次郎 |
第26代 1927 - 1929 |
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