富士山本宮浅間大社
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富士山本宮浅間大社 | |
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所在地 | 静岡県富士宮市宮町1-1 |
主祭神 | 木花之佐久夜毘売命 |
社格等 | 式内社(名神大)・駿河国一宮・官幣大社・別表神社 |
創建 | 垂仁天皇3年ごろ |
本殿の様式 | 浅間造 |
例祭 | 11月3日・4日・5日 |
富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)は、静岡県富士宮市にある神社である。式内社(名神大社)、駿河国一宮で、旧社格は官幣大社。日本国内に1300余にのぼる浅間神社の総本宮、富士信仰の中心地である。富士山を神体山とし、山頂に奥宮(富士宮市富士山頂上官有無番地)がある。
目次 |
[編集] 祭神
木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)を主祭神とし、夫神の天津日高日子番能邇邇芸命(あまつひこひこほのににぎのみこと)、父神の大山津見命(おおやまつみのみこと)を配祀する。
元々の祭神は富士山の神霊「浅間大神」(あさまのおおかみ)であるが、いつの時代からか、神話に登場する木花之佐久夜毘売命と同一視されるようになった。大山津見命は隣国伊豆国の一宮・三嶋大社の主祭神である。
[編集] 歴史
社伝によると、第7代孝霊天皇の時代に富士山が噴火し国中が荒れ果てた。その後、11代垂仁天皇が富士山の神霊「浅間大神」を鎮めるために、垂仁天皇3年(紀元前27年)頃に富士山麓にて祀ったのが当社の始まりと伝える。当初は特定の場所で祀られていたのではなく、その時々に場所を定めて祭祀が行われていたが、景行天皇の時代に現在地の北東6kmの場所の山宮に磐境が設けられた。伝承では、日本武尊が駿河国で賊徒の計にかかり野火の難に遭ったときに、浅間大神に祈念して難を逃れたので、賊徒を平定した後に山宮に浅間大神を祀ったという。806年(大同元年)、平城天皇の命により坂上田村麻呂が現在地の大宮の地に社殿を造営し、浅間大神を山宮より遷座した。以降、朝廷の崇敬を受け、延喜式神名帳では名神大社に列し、また、駿河国一宮として崇敬された。駿河国国府の近くに当社より勧請を受けて「浅間神社」(現 静岡浅間神社の一社)が創建され「新宮」と呼ばれたので、それに対して当社は「本宮」と呼ばれるようになった。
武将からも崇敬を受け、源頼朝・豊臣秀吉が社領を寄進、北条義時・足利尊氏・足利持氏が社殿を造営、武田信玄・勝頼親子が社殿の修造を行っている。徳川家康は867石の朱印地を安堵したほか、関ヶ原の戦いの戦勝を記念して現在の社殿を造営し、富士山八合目以上の土地を寄進している。その後も歴代の将軍が祈祷料・修理料の寄進を行った。
室町時代に始まった富士信仰は江戸時代に盛んとなり、多くの人が富士山に登るようになったが、当社はその表口として賑った。
近代社格制度のもと、1871年(明治4年)5月14日に浅間神社として国幣中社に列し、1896年(明治29年)7月8日に官幣大社に昇格した。第二次世界大戦後は神社本庁の別表神社に加列され、「富士山本宮浅間大社」に改称した。
徳川家康から寄進された富士山八合目以上の土地の所有権について国との間で裁判となったが、1974年(昭和49年)の最高裁判決により、古来より富士山が当社の神体とされてきたこと、富士信仰の中心地であることから、この土地が当社の境内地であることが確認された。
[編集] 文化財
[編集] 重要文化財
- 絹本着色富士曼荼羅図
- 太刀 銘南無薬師瑠璃光如来 備前国長船住景光
- 脇指 銘奉富士本宮源式部亟信国 一期一腰応永廿四年二月 日
[編集] 主な年中行事
- 流鏑馬祭(5月4日~6日)
- 開山奉告祭・御田植祭(7月7日)
- 閉山奉告祭(9月7日)
- 富士宮秋祭り(11月3日~5日)
[編集] 外部リンク
- 富士山本宮浅間大社ホームページ(公式サイト)